論 文



 それでもなお私たちが「柳田」を論じるのはなぜか?
   ―柳田のイデオロギー批判に対する一つのリアクションとして―

                『第三回「柳田国男の会」報告集』(1998)発表論文

『「柳田国男の会」の報告集』は手に入り難いので、この小論については論文全体を掲載します。


    


 まず、昨年(1997)の12月に発行された民俗学入門書(?)『 AERA Mook 民俗学がわかる。』の中での川村湊氏の次のような発言を引用することからはじめたい。


「柳田民俗学の内在的な批判・継承をねばり強く試みている赤坂憲雄は、村井紀および私の本に対して批判的な見解を明かにしているが、『柳田国男の正当な後継者』たちや、『日本民俗学会』からは、少なくとも今のところは拙著などに対する本格的な『反批判』は聞こえてこない。もちろん、事実誤認や認識不足、無知・無理解を訂正するにはやぶさかではないが、柳田国男自身、あるいは柳田民俗学、または柳田民俗学を『後継』した(はずの)日本民俗学に対する『植民地主義』批判は私としてはいまだ有効であり、それを撤回しなければならないほど説得され、納得させられる『反批判』に出会ったとは思えないのである。」

 言うまでもなく川村氏は、戦時中柳田が、日本を中心に放射状に広がる「大東亜民俗学」なるものを構想していたとし、それがいかに東アジア諸国の民俗学の成立に植民地主義的陰を落としたかを痛烈に批判した『「大東亜民俗学」の虚実』の著者である。が、民俗学会評議委員会(1996年10月)での「最近の柳田批判」をめぐる桜井徳太郎氏と福田アジオ氏のやり取り(『日本民俗学』209号 学会記事)を直接的には受けてなされたここでの発言には、批判というよりも、川村氏の著書を含めた柳田のイデオロギー批判に対して、無関心を装ったり、また柳田とは無関係であることを主張することによって責任のがれをするなど、情けない体質をもった民俗学内部への絶望か、あるいは同情すら感じられるのだ。

 今、「柳田」は、国民国家論やオリエンタリズム批判の煽りを受けて、まさに批判の渦中にある。しかし、これに対する「本格的な反批判」は民俗学内部だけでなく、自己反省を含めて言えば、こうして「柳田」を論じようと集まる私たち「柳田国男の会」のメンバーからさえも、いまだほとんどなされていないのが現状だ。むろん、私たちは川村氏の言う「柳田国男の正当な後継者」ではない。むしろ、様々な分野から参加者の集まるこの会の最大の特徴は、民俗学という閉塞的な領域を超えた自由な議論の場を作り上げ、そこで「柳田」を改めて見直すことができるという点にあるといえよう。そうであるならば、なおのこと、この自由な議論の場において、これらのイデオロギー批判がいまだタブー視されている事態を、私たちはより深刻に受けとめるべきであろうし、また、批判するにせよ、肯定するにせよ、これを個々の議論においてどのように踏まえて行くのか、その態度を明かにしていくことは、少なくとも今後も「柳田」に関わっていこうとする者にとっては、最低限の責務であるように思われる。


    



 では、これらのイデオロギー批判に対して、真摯な対応をするにはどのような方法がありうるだろうか。例えば、川村氏も唯一の「反批判」者として認めている赤坂憲雄氏が、その川村氏の議論に対して行っている批判の仕方を参考にしてみよう。


「柳田のいう“大東亜統一といふ大きな問題”を起点としながら、日本の植民地支配の下に置かれていた諸民族の統合をめざすものと標榜されていた以上、川村の理解のある部分には同意せざるをえない。当然ながら、いくつもの留保がある。それを一国民俗学の中心/周縁の構図の植民地版と捉え、華夷秩序にもとづく『大東亜民俗学』と規定することには、同意ができない。のちに触れる『大東亜民族学』との対抗関係や、そのはざまに横たわる位相的な落差が捨象されてしまうからだ。」(「海の精神史 朝鮮神社」)

 赤坂氏はこのように川村氏の指摘に一定の同意を示しながらも、その読みの浅薄さを批判し、戦時期の「ひき裂かれた言葉の揺らぎがくりかえし露出している」(前掲)柳田のテクストの丹念な読み直しを試みる。その上で、柳田が提唱した「大東亜民俗学」は、植民地主義に濃厚に彩られた岡正雄らの率いる「大東亜民族学」との対抗関係の中で登場したのであり、それには、植民地主義に対する柳田の批判の意志が込められていた、という理解を示しているのだ。

 この赤坂氏の理解に私自身が賛同できるか否かは別として、このようにテクスト自体に還り、その読みの可能性を再検討することは、柳田批判に対する反批判の一つの方法として有効であることは確かだろう。なぜなら、赤坂氏も指摘するように、柳田のテクストには、一貫した清廉潔白な態度よりも、苛立ちと自己保身のはざまに揺れ動く、矛盾だらけの言葉がいたるところにみられるからだ。したがって、テクストの読みの繰り返しは、そうした柳田の「揺らぎ」を含めた思想のより深部を理解するために、私たちがとらなければならない最も基本的な方法なのである。その意味で、この赤坂氏の反批判は、川村氏ばかりではなく、村井紀氏や岩本由輝氏などの柳田のある細部の言動に過剰な読み込みをして、そのイデオロギー性を非難するやり方に対抗するには、十分に説得力のある方法だと言えるだろう。


    



 では、このようなテクストの読み直しという方法は、子安宣邦氏による柳田批判に対しても、反批判としての有効性をもち得るのだろうか。子安氏は、言うまでもなく、柳田の民俗学を「国民国家論」の文脈の中で批判し、そのイデオロギー性を断罪しているのであり、前回の研究会でも共通の「話題」となった人物である。私が、ここで子安氏による批判を川村氏や村井氏のものとは区別して問題化するのは、それが、柳田が植民地政策にかかわっていたかどうかといった事実関係を問題にする彼らとはまったく違ったレベルでなされているからだ。子安氏は例えば次のように言う。


「『国民』とは個別の郷土研究の成果を、そして各地の平民の生活記録を一つの綜合へと読みとっていく柳田の学の主題であり、彼の学の論理である。民俗的素材を自国の内部観察者の親密な視線をもって読むことをいう彼のフォクロアの学とは、辺地の住民の習俗や俚謡を、また歴史外の平民の生活を『国民』を主題として解釈する学、その主題のもとに綜合する道筋をそれらに読みとっていく学だということができる。『一国民俗学』とはそのような学を言うのである。地方の俚謡や平民の衣食は既成の歴史を解きほぐす外部としてあるのではない。それらは『国民』を主題とする『一国民俗学』の内部に読み込まれていく素材としてあるのだ。」(『近代知のアルケオロジー』)

 このように言う子安氏には、柳田が実際植民地政策にどのように関わっていたのかとか、柳田が実は植民地主義を追認する、あるいは補強する「大東亜民俗学」を構想していたのだといったような「事実」への関心は、おそらくまったくないに違いない。氏の批判の矛先はただ一点に集中されている。すなわち、「なぜに農民は貧なりや」という素朴な疑問から出発し、疎外された平民の生活に親密なる視線をおくる柳田の「経世済民」の学は、その「内なる視線」の絶対化という志向そのものからして、近代日本の作り上げた「国民」の自明視のもとに、その「国民」の内発的統合を促す知のイデオロギー性を有していた、という柳田民俗学が宿命的に孕む構造的問題だ。

 例えばそうしたイデオロギー性の問題は、戦後日本の思想的状況を鋭くえぐり出した『敗戦後論』で用いられる加藤典洋氏の言葉、「公共性」と「共同性」とに当てはめてみるとわかりやすい。加藤氏によると、「公共性」と「共同性」との相違は、前者が「互いに異なる個別性と差異性を基礎にした集合性」であるのに対して、後者は、「同一性を基礎にした集合性」であることにある。そうした理解のもと、加藤氏は戦後五十年たっても「あの戦争」が客体化されずに。しばしば閣僚の中から侵略戦争をめぐる失言が出てアジア諸国から反感をかったり、靖国問題が生じたりするのは、日本の思想状況がいまだ「共同性」から「公共性」に転換できていないからだ、というのだ。

 この加藤氏による「公共性」と「共同性」という概念の区別を理解するために、もう少し詳しく紹介しておこう。例えば、戦争による「死者」をめぐる言論には相対立する二つの立場がある。一方は、自国の三百万の死者の英霊化による哀悼をいう立場であり、もう一方は、そうした自国の死者の英霊化を否定して、日本の侵略戦争によるアジア諸国の二千万の死者への謝罪をいう立場である。前者が、国外の他者(死者)との関係を脱落させて、国内の他者(死者)との単一的な共同関係でアイデンティファイしているのは明らかである。が、加藤氏の論点は、むしろ、一見「共同性」から抜け出た立場のように見える後者も、実は、その袋小路を脱しているわけではない、というところにある。つまり、彼らもまた、自分たちをインターナショナルな他者、国外の他者(死者)との関係でアイデンティファイすることによって、国内の他者を排したところで単一な他者との同一的な関係で連帯している以上は、それはイデオロギー的な共同関係でしかありえない、というわけだ。その上で、そうした行き詰まった状況を打開するには、このように分裂する二つの他者(死者)を同時に引き受ける「公共的」な在り方が必要であること、そしてそれがどのような思考を起点として成り立ち得るかを全編にわたって論じているのである(註1)

 この加藤氏の興味深い議論に沿って、もう一度子安氏の指摘する柳田の、あるいは柳田民俗学の問題性を整理してみよう。柳田は、英雄豪傑の歴史からは疎外された「平民」の生活史をくみ取るために、そして、彼ら自身が「自らを知るための学」として民俗学を確立し、整備した。それはしかし、決して彼らの生活のすべてを描き出したのではなく、あくまでも「国民」という共通性に回収され得るもののみを描き出したのだ、というのが子安氏の議論であった。例えば、柳田は、それまで孤島苦に苦しんできた「沖縄」を発見し、そこに親密なる視線をおくる。それは、一見すると、国家に抗し差別されるものを救おうとするリベラリストとしての姿のようにも思える。しかし柳田の「発見」した沖縄とは、異質性や多様性を有する「沖縄」ではなく、ただ、「やまと」の古代を映発する「標本」として「発見」されたものだったということからすると、つまり、それは、国内の他者とただ同一性のみによって関係する共同的なありかたであったといえるのだ。

 それに対して、例えば、柳田は大正期において、世界民俗学、比較民俗学を構想し、また、晩年にも東アジアにつながる「海上の道」を追究したではないか、したがって、実は、柳田は、「国民国家」を超越したインターナショナルな志向も有していたはずなのだ、という主張が(川田稔『柳田国男―その生涯と思想』、福井直秀「柳田国男のアジア認識」古屋哲夫編『近代日本のアジア認識』)、その批判にあたるかもしれない。しかし、加藤氏の議論の文脈から言うと、こうした柳田の立場もまた、それが国外の他者と、差異性を許容しない同一性のみで結びつく関係を前提とした構想であることからすれば、「公共的」ではありえないということになるのだ。

 このように整理してみると明かなように、柳田の中にも加藤氏が指摘した戦後日本における思想状況と類似した相対立する二つの立場があったことがわかる。そして、結局は、両者とも差異性、多様性を基礎とした公共的なありかたには転換できなかったところに、その根本的な問題があったといえるのである。とすれば、子安氏の批判は、そうした柳田民俗学の二つの立場に底流する構造的な問題性を見抜いたものだったと言えるだろう。したがって、このような本質的な問題についての批判に対しては、当然のことながら、単にテクストの読み直しによって対抗することはできるはずもなく、私たちはこれを謙虚に受けとめるよりほかはない。


    

 では、このような問題性を了解した上で、それでもなお私たちが「柳田」を論じようとする場合、そこにはいったいどのような意義が見出せるのだろうか、それを提示する必要があるだろう。しかし、私には、この困難な問題を全面的に引き受けるだけの力量はない。そこで、ここでは、子安氏による柳田批判の「正しさ」を認めながらも、一方で私の中に「わだかまり」として残るいくつかの素朴な疑問を率直に述べることによって、この問題を考える際の一つの方向性を示しておきたいと思う。

 私が子安氏の批判に対してもつ「わだかまり」の一つは、それが、すべてを鳥瞰できる超越的な立場からなされている、ということから生じる。例えば、子安氏は、バリの政治秩序の一形態である「ヌガラ」をモデル化するクリフォード・ギアーツのある「慎重さ」と比較して、「内なる視線」を特権化する柳田の無自覚さとその「語り」のいかがわしさをいう。

「対象としての経験的な材料から構成される理解のための理念的なモデルが、抽象物であり、決して歴史的存在物ではないことの慎重な自覚は、研究者の視点が対象に外在していることによってより一層強められるであろう。それに反し、<内から>の見者の特権をいう意識は、もとより対象との距離を消滅させるだけではなく、見られたことが彼によって、しかもひたすら同心円を描こうとする彼によって見られたものであることを隠蔽する。<内から>の視線の特権をいうものは、実は見ようとしたことをしか、つまり己れに親密な<やまと>をしか見ていないのだ。」(前掲)

 思うに、文化の解釈と記述の問題について自覚的なギアーツの議論は、文化人類学の研究史における絶え間ない議論の所産であり、また、言語論的展開以降の社会科学における「客観的事実」への懐疑という共通認識を土台に展開されたものであるといえる。そうであれば、それが、いまだにその問題を克服しえない現在の日本民俗学に対する批判にはなっても、そうした認識を共有しえない柳田の時代的限界を批判するのは、「現代から過去を裁く歴史の後智恵にすぎない」(上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』)といえるのではないだろうか。

 しかし、こうした点を問題にする場合、例えば、次に引用する赤坂氏の批判が(子安氏に対する直接的な批判ではないが)(註2)、妥当がどうかということもまた問題にしなければならない。


「川村の提言する比較民俗学への道行きが、はたしてあの戦争の時代に可能であったかといえば、大いに疑問だ。(中略)ある意味では、かつて柳田が大いなる彼岸として語った比較民俗学は、此岸へと引き寄せられたのである。そんな時代の眼差しによって、昭和十年代の柳田を、その一国民俗学を裁くことはできない。時代のなかの等身大の柳田に眼を凝らす必要がある。」(前掲)

 赤坂氏は「時代の中の等身大の柳田」を見よ、という。確かに、「当時の文脈の中で柳田のテクストを読め」、というこの主張自体は、柳田を読み直すための欠かせない視点であるといえるだろう。しかし、氏がそこから、戦時下において発せられた柳田のいくつかの時局迎合的な発言や態度に対して、「身振りとしての政治ゆえの転び」だったという理解を示していることには少なからぬ疑問を感じる。なぜなら、氏自らも指摘しているように、柳田は産声をあげたばかりの民俗学という組織を背負っていたのである。そうであれば、柳田にとってはたとえ「身振りとして」であったとしても、そうして発せられた言説が、組織のメンバーに、そしてより広く、柳田の書物の数多の読者にいくらかの影響力をもった可能性は否めないはずだ。いや、柳田が、当時においても彼らから絶大な権威者としてみなされていたことからすれば(註3)、その可能性はおおいにあり得ると言えるだろう。このような観点からすると、やはり、柳田の戦時下における「責任(罪)」を問わないわけにはいかないはずなのだ。

 そして、更にそこにはより根本的な問題が孕まれている。それは、赤坂氏の議論が、断罪するか、免罪するかという過去の「罪」を裁く二元論的枠組みから脱し得ていないということだ。もちろん、赤坂氏の試みは、単に柳田の「罪」を許し、擁護するような短絡的なものではない。むしろ、氏の主眼は、「揺らぎ」の中にある柳田の多様な側面を全体として理解することにある。がしかし、少なくとも「身振りとしての政治ゆえの転び」という評価には、「それは当時としては仕方なかった」とか、「それは本来の柳田の姿ではなかった」といった具合に、柳田の「罪」を逸脱したものとし、それゆえに免罪する視線が含まれているように思えるのである。だが、このような断罪するか、免罪するかといった裁判官的立場からは、柳田全体を理解する視点は生まれてこないのではないか。私たちは、柳田をその「罪」もひっくるめて引き受ける必要があるのだ。


    


 このように、柳田を議論する際にとられる超越的な立場と、当時の文脈へ歩み寄る立場とは、そのどちらにも問題が孕まれている。ただし、私が、後者の立場をとる赤坂氏にある部分で共感を覚えていることも確かである。というのも、氏の議論が、柳田を克服し、民俗学の新たな可能性を模索するという動機のもとに、しかも「現実」に対する働きかけを前提としてなされているからである。ここでいう「現実」に対する働きかけとは、赤坂氏が東北をフィールドにしてその野辺をくまなく歩き、古老からの聞き書きを進めていることを指している(『東北学へ』)。つまり、赤坂氏が柳田に向き合うとき、常にそこには、フィールドという「現場」で、その「現実」をどのようにしたらとらえられるのかという実践的な目的が自覚されているのだ。それに対して、超越的な立場をとる子安氏には、このような「現実」に対する働きかけも、またそもそも「現実」に対する視線も、まったく欠如しているといえる。この点も、子安氏に対して私がもつ「わだかまり」の一つである。

 ただし、誤解を招かないように説明を加えれば、ここでいう「現実」というのは、客観的「事実」としてそこにある、ということを意味しているわけではない。私のいう「現実」は、例えば、上野千鶴子氏が『ナショナリズムとジェンダー』の中で重要視する「現実(リアリティ)」に倣っている。上野氏は、従軍慰安婦について述べる文脈の中で、「現実」を「事実」から慎重に区別しながら、加害者と被害者との間には、埋めることの不可能なほど落差のある二つの「現実」があると指摘する。すなわち、当事者の日本兵士が現在においても「加害者」という意識すらもちえない、「従軍慰安婦」という制度によって正当化された「現実」と、「被害者」の女性にとっての「強姦」という「現実」との全く異なる二つの「現実」が生きられており、そこには、「慰安婦」制度が存在したという単一の歴史的「事実」さえ共有されていないという。つまり、「現実」は、その経験の主体に応じて多様であり、複数であるのだ。

 こうした認識に基づけば、柳田を「断罪」し、「一国民俗学」の「解体」をする子安氏には、「現実」の多様性に対する視線があるとは言い難いことは明らかである。例えば、子安氏は、柳田の「平民」に対する親密なる視線とその語りのいかがわしさをいうが、そこには、差異なるものとして排除された「平民」の「現実」もあれば、一方で、そうした「語り」に共感し、それによって精神的な安らぎを得た「平民」の「現実」もないわけではないはずだ。一例として挙げれば、柳田が戦時下において執筆した『先祖の話』には、戦争という事態を追認する言葉も多く見られる。しかし、戦後に出版されたそれが、柳田の著作の中でも特に多く一般読者に読まれてきたものの一つであることからすると、そこには、先祖に対する信仰の共有によって「魂の救済」を求める柳田に共感し、それによって深い心の傷を癒そうとした「読者」が少なからずいたことが想像できるのだ。

 また、子安氏の議論の前提となっている「国民国家論」からは否定される「伝統の創造」という問題にも、また複数の「現実」がある。あいかわらず地方において「日本」を「発見」することに情熱を燃やす「民俗学者」の「現実」もあれば、柳田の「一国民俗学」と同様に、それによって抑圧され、排される人々の「現実」もある。が一方で、「伝統の創造」「ふるさとの創生」を契機に、地域を活性化しようとする人々の「現実」も、そして、そうして創られた「伝統」や「ふるさと」に、心の癒しを求めて訪れる都会人の「現実」もあるのだ。「長野冬季オリンピック」において演出された長野市民による「伝統」の実演や、それに対する「国民」の熱狂ぶりは、まさにそうした「現実」の一端を如実に物語っているといえる。

 「現実」に対する働きかけを放棄する子安氏の議論は、この「現実」の多様性を、特に、私がそれぞれの例の後者に挙げたようなアカデミズムには属さない一般の人々、誤解をおそれずに言いかえれば、「大多数の国民」の「現実」を説明しない。もし、試みに子安氏の議論に基づいてこれらの「現実」を説明しようとすれば、それは彼らに対して、「みなさんは欺かれている」「はやくそれが幻想であることに気づきなさい」と教え諭すか、もしくは「みなさんにはわかるはずがない」と突き放すか、どちらにせよ「大多数の国民」を愚民視することになると思われる。そうであれば、超越的、普遍的な立場からなされる子安氏の議論自体が、柳田と同様のイデオロギー性を抱え込んでいるといえるし、言い換えれば、それは、柳田とは反対に「外部からの視線」を特権化し、それゆえ「現実」の多様性を認めないという点において、前述の加藤典洋氏のいう「共同性」の域を脱していないということになるだろう。


    


 柳田に対して、超越的な立場からそのイデオロギー性を批判する子安氏もまた同じ問題を抱えているという事態はどういうことか。私は、この両者に共通する問題を見つけることが、柳田を克服する第一歩ではないかと思っている。この問題を議論する思考の途中経過であるという限定づけの下で言えば、それは、「私」の不在ということではないだろうか。ここでいう「私」という概念には、加藤典洋氏の使う「私性」にも、上野千鶴子氏の使う「わたし」にも、おそらくそのそれぞれを共有する部分が多くある。加藤氏の「私性」は、「共同性」のくびきを越え、「公共性」へと繋がる可能性として示される(前掲)。そしてこの場合重要なことは、その「私性」が「共同性」の一単位としてあり、そこからしか「共同性」を「殺す」ことはできないという指摘だ。一見わかりにくいこの指摘を、私なりに理解すると、こういうことではないか。つまり、「共同性」を批判し、越えられるべきものとする「私」も、あらゆる「共同性」のしがらみから自由な「公共性」の領域に属す「個人」ではなく、実は、その批判されるべき、越えられるべき「共同性」に属しているのだ。したがって、「共同性」の克服は、その自らの不安定な場所を自覚することにおいて始めて可能性を有するのだ、と。

 こうした認識に従えば、子安氏の柳田批判には、少なくともその著書における言葉からは、自らも同じイデオロギー性を有しているという自覚、すなわち「共同性」に属する「私」の自覚は見受けられない。では、柳田はどうかというと、「われわれ日本人」、「われわれ日本国民」という言葉を頻繁に使っていたことからすれば、自らの「共同性」への自覚は十分すぎるほどあったといえる。しかし、問題なのは、その「われわれ」という「共同性」とそれに属する「私」の間にある差異に、無自覚であるか、あるいはそれを混同していたということだ。上野氏は、この「共同性」と「私」の間の差異を問題にしながら「わたし」を定義づける。上野氏によれば、「わたし」は「国民」でもなく、かといって普遍的な立場の「個人」でもない。


「『わたし』を作り上げているのは、ジェンダーや、国籍、職業、地位、人種、文化、エスニシティなど、さまざまな関係性の集合である。『わたし』はそのどれからも逃れられないが、そのどれかひとつに還元されることもない。『わたし』が拒絶するのは、単一のカテゴリーの特権化や本質化である。」(前掲)

 このような考えに立てば、私が子安氏と柳田に共通する問題として立てた「私」の不在とは、自らもまた「共同性」に属しているということへの自覚がなく、それゆえに、「国民」や「普遍主義」などの単一の「共同性」に無自覚のままに還元されてしまっているということだといえる。言い換えれば、「私」とは、「共同性」に属し、しかもそれに還元されない多元的、複合的なものであるということだ。

 では、その「私」を回復させ、常に自覚するための手立ては何か。この問いはおそらくとてつもない難問だ。だがここでは、一つの予感として、柳田に持たれる特有の「身体感覚」に、その「私」への自覚を持続させる契機があることを示してみたい。それは、私が柳田を論じる際の意義としても見出されるかもしれない。

 例えば、柳田は、『木綿以前の事』において、木綿衣服の導入による生活変化を、身体感覚の変化として説明する。

「それよりさらに隠れた変動が、我々の内側にも起こっている。すなわち軽くふくよかなる衣料の快い圧迫は、常人の肌膚を多感にした。胸毛や背の毛を不必要ならしめ、身と衣類との親しみを大きくした。すなわち我々に裸形の不安が強くなった。一方には今まで眼で見るだけのものと思っていた紅や緑や紫が、天然から近よって来て各人の身に属するものとなった。心の動きはすぐに形にあらわれて、歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなった。」(『木綿以前の事』)

 子安氏は、この柳田の美しい語りに含まれるのは、「平民」の日常に「お前は美しい」と勝手に価値づけの視線を注ぐいかがわしい美意識であると指摘する。前述したように、この批判そのものは当を得たものである。しかし、木綿衣服が擦れる皮膚の感触をいうとき、それは超越的な場所から、遠い彼方へ投げかけられた視線ではなく、その距離が限りなく狭まった(狭まったと柳田の感じる)場所で、あるいは自らの皮膚感覚に向けられた視線だったとみることもできる。とすれば、それは、自らもまた「平民」と同じ感覚を有しているという「現実」へのまなざしを喚起するものだったとも考えられる。つまり、その「身体感覚」は、「共同性」に属す「私」への自覚を促すものなのだ。

 しかし、「身体感覚」は他者と共有しうるものばかりではない。むしろ、それは共有できないときにこそ、「私」の「共同性」への還元を拒絶する強烈なインパクトをもつはずだ。だが、柳田はその「現実」へのまなざしを喚起するもう一つの「身体感覚」は直視しない。例えば、柳田は、訪れた村の人々への嫌悪感や拒絶感は決して語らない(註4)。語られるのは、彼らへの共感や同情ばかりである。子安氏の批判が向けられるのは、そこなのだ。

 私は、先に、「私」への自覚を持続させる手立ては、柳田に持たれる「身体感覚」だ、そこにこそ私が柳田を論じる意義があるかもしれないという予想を述べた。その場合の「身体感覚」は、このように、他者と共有されるものと、他者を拒絶するものという二つの側面を常に有しているものだと考えている。柳田の果たし得なかったそうした相矛盾する「身体感覚」に率直に向き合うこと、それは、私自身が多様な「現実」を引き受け、そこに働きかけるための基礎づくりとなるに違いない。そして、それは加藤氏のいう「共同性」からの脱出、「公共性」への転換への第一歩になるだろう。私の柳田への問いかけは、「現実」に対する実践的な目的のもとに、今後も続けられていくはずだ。




(註1)  
 しかし、加藤氏の議論には、決定的な自己矛盾があることも指摘しておかなければならない。例えば、上野千鶴子氏は、加藤氏が、「共同性」の克服を意図しているにも関わらず、「わたしたち『戦後日本人』の人格分裂」といった具合に、不用意に「わたしたち」という言葉を使うとき、そこには、単一の人格を想定しうるような集団的主体が無意識の内に前提とされているのではないか、と糾弾している(『ナショナリズムとジェンダー』)。加藤氏の議論のおけるこのような不徹底さ、あるいは無自覚さは、「結局、加藤も国民国家の枠組みに囚われている」といった、氏の意図に反した非難に自らの議論を晒すことになっている。 →本文へ戻る


(註2)
 不思議なことに、赤坂氏は、子安氏について公的にはほとんど言及していない。 →本文へ戻る


(註3)
 例えば、前回の研究会で石井正巳氏が示された私製絵葉書は、そうした柳田の権威性の象徴だと言えよう。  →本文へ戻る


(註4)
 例えば、内郷村の調査において、一週間つづけて出された麩と南瓜だけの貧しい食事に閉口したという記事が新聞に載って村人の反感を買ったことや、貧しい農家に入って聞き取りをしたとき、その老婆の出してくれたお茶には汚がって口もつけなかったというエピソードは有名だ(『シンポジウム柳田国男』)。しかし、柳田はそういった村人と共有できない「身体感覚」を。その文章の中で語ることはなかったのである。  →本文へ戻る