論 文 要 旨 


『人身御供』祭祀論序説―「食」と「性」、そして「暴力」―
                         『日本学報』19号(2000)





 「人身御供譚」を祭の由来として伝承する「人身御供」祭祀の中には、祭における女性奉仕者が物語中の「人身御供」に重ね合わされて表現されるタイプのものがある。例えば、山形県鶴岡市大山の椙尾神社の「犬祭り」(六月五日)や大阪市西淀川区野里の住吉神社における「一夜官女神事」(二月二十日)、また徳島県鳴門市撫養町の宇佐八幡神社における「おごく」(十月十三日)などがその事例として挙げられる。これらの祭は、前稿で取り上げた儺追祭とは異なり、現行の祭においても、また歴史的に見ても具体的な暴力的要素はうかがえない。本稿では、このタイプの祭において「人身御供」の伝承はいったいどのような意味をもっているのかを考察し、祭と「人身御供」の関係についての議論を深めていく。

 そこで、このタイプの祭を分析する際に重要な視点をまず挙げておけば、それは、女性奉仕者に付与される、「食」と「性」に関わる二重のイメージをどのような関係でとらえるのか、ということである。というのも、そこでの女性奉仕者は、伝承になぞらえて「人身御供」、すなわち「神の食物」となるイメージで儀礼的に表現されているが、その一方で、「仮女房」や「一夜官女」、また「一時上臈」などの呼称で呼ばれることによって、いわば、神への性的な奉仕者として選ばれた女性というイメージも負っていると言えるからである。

 この女性に対する「食」と「性」とのイメージの重なり合いについては、例えば、小松和彦が「雨乞いと生贄」(『説話と宇宙』)の中で、「人身御供譚」と「異類婚姻譚」とが物語構成上の類似点が多いことから、神話・説話上の表現においては、生贄と嫁入り、すなわち「食」と「性」の関係は等価であり、置換可能なものと見ることができるのではないかと指摘していることが参考になろうか。つまり、こうした人類学的見地に基づけば、祭に奉仕する女性に、「神の性的奉仕者」と「神の食物」の両イメージが付与されているのは、ごく必然的な傾向だということになるわけである。しかし、「人身御供譚」(人を「神の食物」とする物語)が祭の由来として発生する過程を見ようとする私たちは、この女性に付された「神の食物」と「神の性的奉仕者」の両イメージの関係について、祭の具体的な分析を通してより慎重に検討する必要があるように思われるのだ。

 ところで、これらの「人身御供」祭祀に共通する特徴としてもう一つ注目しておきたいのは、祭の中で「人身御供」と見なされる女性が、神饌を運搬し神前に供進する役割、いわば「神の饗応役」を果たしているということである。祭における女性の役割について議論する上井久義は、このような女性が神饌を供える祭の形式の多くが頭屋儀礼に見られることに注目し、頭屋儀礼の古代的な形態をうかがわせるものではないかと指摘している。すなわち、頭屋儀礼において神饌を供える女性は、厳重な精進潔斎を要求され、祭の中でも重要視されていることからすると、本来は、「神事の中心人物としてのよりまし的存在」であったのではないか、そして、それが現在は神饌の供進役でしかないのは、頭屋の主人に祭における職掌が移行することによって、祭の中での女性の存在意義が失われ、その役割が形骸化した結果ではないか、というのである(上井『日本民俗の源流』)。そして、更に上井は、『今昔物語』などの生贄説話には、そうした女性がヨリマシとして中心的役割を果たしていた古代の村落祭祀の様相が反映されていると見なし、現行の民俗儀礼をもとに展開した自説を史料的に補強する有力な証拠として、生贄説話(「人身御供譚」)の分析を議論の中に組み込んでいくのである。

 柳田国男や折口信夫も古代祭祀における女性の姿を、神がかりをし託宣を下す巫女(ヨリマシ)として議論していることから考えても、上井の言う、ヨリマシから神饌の供進役へという村落祭祀における女性の役割の変容過程は大筋で賛同できよう。だが、問題なのは、上井が「人身御供譚」を古代祭祀におけるヨリマシの姿の反映だとし、儀礼行為と物語表現とを短絡的に結び付けていることである。言い換えれば、「生贄を立てるということを、実際に生きた人間を殺して神に捧げると考える必要はない」(上井『民俗社会人類学』)と言い捨てる上井の議論からは、ではなぜ儀礼におけるヨリマシという存在が「神の食物」として表現されるのか、あるいは表現されなければならないのか、という核心的な問いへの追究が放棄されているのだ。しかし、上井が村落祭祀の中心におく神がかりをし託宣を行う巫女(ヨリマシ)の姿と、物語の中での俎板の上で切り刻まれ「神の食物」として犠牲にされる娘の無残な姿とは、容易に結び付くものではない。その間の想像的飛躍はあまりにも大きいのだ。

 本稿では、このような上井の議論の問題点を踏まえた上で、頭屋儀礼の中で「人身御供譚」が創出され、女性が「神の食物」というイメージを負っていく背景を、初めに挙げた「食」と「性」の関係に対する視点を重視しながら考察していく。

 結論的に言えば、祭に奉仕する女性からヨリマシ的性格が失われ、その役割が形骸化していくことに対応して、女性イメージも「神の性的奉仕者」の上に「神の食物」のイメージが重ね合わされていったのではないか、と推測できる。つまり、他の民族文化のシャーマニズム現象なども視野に入れながら慎重に検討する必要はあるだろうが、折口が「まれびと」を歓待する古代の巫女の姿を「神の嫁」と表現したように、ヨリマシとなる巫女の神がかる姿(トランス状態)が、荒ぶる神を性的に受容しているようにイメージされたのは想像に難くない。しかし、男性中心に運営される頭屋制が整備されるのにともなって、女性が祭の中心的担い手から排除され、神饌を運搬し供進する役割のみを担うようになると、自ずとそのイメージも変容していくと思われる。すなわち、現行の祭で見られるような「神の食物」である神饌と「神の饗応役」である女性との儀礼における一体的表現が、女性が「神の食物」として捧げられたかのような視覚的イメージを生み出していったのではないかと考えられるのだ。このように考えれば、祭の由来として伝承される「人身御供譚」は、上井の言うように、神がかりと託宣を行う巫女が祭の中心的担い手であった村落共同体の古代的な様相を反映したものではなく、むしろ、頭屋制のもとで女性奉仕者がヨリマシから神饌の供進役へと変容していく中で紡ぎ出された物語であったと言うことができるだろう。

 では、そうして創出された「人身御供譚」が祭の由来譚として伝承され、その物語になぞらえて女性が「人身御供」に見立てられる演出がなされてきたことは、祭の継続にとってどのような意味をもっていたのだろうか。

 例えば、赤坂憲雄は、「人身御供譚」という伝承そのものに、秘められた「根源的な暴力」の記憶を読み取り、「人身御供譚」にはそうした暴力の記憶を「再認」し、同時に「否認」する逆説が孕まれているとしている(赤坂『境界の発生』)。つまり、「人身御供」という物語を伝承すること、それ自体が、「根源的な暴力」の記憶、すなわち、昔は共同体の人間が犠牲になったのだ、ゆえに本来犠牲になるのは人間なのだ、という記憶を呼び起こし(再認)、そして同時にその終焉が再確認される(否認)。それによって、共同体の秩序が新たに更新されていく、というのだ。

 この赤坂の議論に当てはめれば、物語になぞらえて女性を「人身御供」に見立てる祭においても、また同様に、こうした「根源的な暴力」の記憶を「再認」し、同時に「否認」するメカニズムの中で、この痛ましい物語がより劇的に、あるいは視覚的に強調されて再演されていると言っていい。つまり「人身御供」祭祀における悲劇的な物語の伝承と祭の中でのその再演は、「暴力の記憶」を祭の中に呼び起こすことによって、祭そのものを再生し、存続させていく役割を果たしていると言えるのである。

 では、このように「人身御供」祭祀が共同体の秩序更新のために「根源的な暴力」を抱え込んでいるとすれば、そのような祭に内包される暴力の問題は、これまで見てきた頭屋儀礼の変容との関係ではどう理解できるだろうか。

 本稿ではこの点について、中村生雄の「祟り神」論を参照しながら、祭における暴力の問題を祀られる神の姿からとらえなおす試みをする。そこで、まず、中村の議論を簡単にまとめておけば、こうなるだろう。中村は、古代の王権祭祀について論じる文脈の中で、三輪氏の出自を語る崇神紀の神人通婚の物語をモデルにして、日本における始源の祭、すなわち「発生としての祀り」とは、巫女が神がかりと託宣を通じて、突発的に出現し荒ぶる「祟り神」を和め祀るものであったとする。そして、既定の手続きによって神を招き入れる定期的な祭祀形式を、氏族の長である祀り手が獲得していくことによって(中村は、それを「発生としての祀り」から「制度としての祀り」への移行と呼ぶ)、祀られる神の姿も、突発的にあらわれていた「祟り神」から、次第に人間の側のコントロール下に祀られる共同体の「守り神」(氏族の祖神)へと変容していったのだというのである(中村『日本の神と王権』)。

 この「発生としての祀り」から「制度としての祀り」へという中村の議論に、「人身御供」祭祀の発生する過程を当てはめてみると、「発生としての祀り」は、頭屋制以前の女性がヨリマシとして司る祭に対応すると考えることができる。とすると、そこで巫女が祀る神とは、突如襲ってきてカオス的な力で人間に猛威をふるう「祟り神」であり、しかも、そうした「祟り神」を全身で引き受け、直接交渉するヨリマシの姿が、性的なメタファーで表現されるものであったことからすると、祭の場において巫女の身体を通して示現する神の姿とは、具体的には女を性的に支配する神、いわば「犯す神」であった、と言えるだろう。つまり、「人身御供」祭祀以前の祭においては、現れる神そのものが女を犯すという暴力的な性質をもつものととらえられていたと推測できるのだ。

 しかし、男性中心の頭屋制による祭祀組織が確立し、女性が周縁的な役割へ排除されていく、すなわち、「制度としての祀り」へと移行していくと、ヨリマシとなる巫女の身体を通して表現されていた「犯す神」(「祟り神」)の姿は、村落共同体の「守り神」へと変容していくことになる。それは、神饌の供進によってもてなしを受ける、いわば「食べる神」であり、巫女を性的に犯す暴力的な神の姿とは遠く隔たった、穏やかで平和的な神のイメージだと言えるだろう。

 重要なのは、そうした祭が制度化され、神の暴力性が失われていく中で、「人身御供譚」が発生し、それになぞらえた「人身御供」祭祀が創出されていくと考えられることだ。「人身御供譚」という供犠の物語の中では、うら若い娘に食らいつき、血を滴らせながら容赦なく食い尽くす、カオス的な神の姿が表される。それは、神饌のもてなしを受ける現実の祭での「食べる神」に対置させれば、「食らう神」とでも言うべき暴力的な神のイメージであろう。

 したがって、女性を「人身御供」に見立て、供犠の演出をする「人身御供」祭祀では、「守り神」(「食べる神」)と「祟り神」(「食らう神」)という神の二面性が同時にたち現れていると言える。すなわち、「発生としての祀り」における「祟り神」の暴力的な性質が希薄化した「制度としての祀り」の継続的実践のためには、その原初の神の暴力性が想起され、かつ儀礼的に表現されることが不可欠であったのだ。言い換えれば、「人身御供」祭祀とは、「制度としての祀り」の中にそうした「祟り神」の暴力性を、再び、人間を「食らう神」の姿として鮮烈に呼び起こす祭祀様式であった、そう理解することができるだろう。

 本稿では、以上のような議論を展開することによって、祭が共同体の秩序の更新と確認を目的として行われるためには必然的に「暴力性」が孕まれること、そして、「人身御供譚」とそれになぞらえた儀礼表現とはそうした「根源的な暴力」を呼び起こす装置であることを、祭の変容とそこで表現される神の姿の変容から描き出していく。