論 文 要 旨


『人身御供』と祭―尾張大国霊神社の儺追祭をモデルケースにして―
                          『日本民俗学』220号(1999)発表論文

 



 「人身御供」という問題を考える手掛かりとして、尾張大国霊神社(愛知県稲沢市)の儺追祭(なおいまつり)は一つの好例である。というのも、儺追祭は、近世において度々外部の知識人から「人身御供の祭」として記述されており、そうした外部からのレッテルが祭に大きな影響を及ぼし、寛保三(一七四三)年の時の尾張藩主徳川宗勝の命により祭祀改変に至ったからである。本稿では、そうした経緯を、神社側の史料や随筆、また寺社奉行所への上申書などの近世の儺追祭をめぐる豊富な史料から再構成することによって、「人身御供の祭」という語りの行方を追っていく。

 そこで、まず本稿で行うのは、近世の儺追祭の現場を丹念に再現してみることである。そうした作業によって、「人身御供の祭」というショッキングなイメージで語られる祭がどのようなものなのか、逆に言えば、「人身御供の祭」とは、儺追祭のどのような要素を表現したものなのかをうかがい知ることができるだろう。

 近世の儺追祭では、その年の災厄を負わせる「儺負人(なおいにん)」として往還の村人を無差別的に捕えてくるという儺負捕りが行われていた。儺負人には誰がなるのかわからない。儺負人の選択は、儺負人を捕えに行く寄進人の集団が最初に出会った者という偶然性に委ねられていたのである。そこでは槍や刀で武装した寄進人たちが、集団となって儺負人を捕えに向かい、そして運悪く儺負人として捕えられた者は、寄進人たちに殴る蹴るの暴力を受けながら神社まで無理やり連れて行かれるのだ。要するに、近世の儺追祭は、死に至る可能性さえある儺負人に誰がなるのかわからないという村人たちの恐怖と緊張の上に成り立っていたのである。

 したがって、「人身御供の祭」というレッテルはこのような恐怖と緊張をともなう祭に付されたものであり、そして、そうしたイメージが、更に、旅人などによる見聞や実際の「恐怖の体験」の証言によって、補強され膨張しながら好奇心旺盛な都会人の間に広まっていったものであると考えられよう。

 では、そうした「不名誉な」レッテルを尾張の人々はどのように受けとめていたのだろうか。但し、「尾張の人々」と言っても、個々の祭への関わり方によっても、また尾張藩という公権力との関わり方によってもその反応や対応は異なるはずだ。本稿では、それを、尾張藩の国学者や神道家、また儒学者などの知識人と、儺追祭を主宰し、執行する尾張大国霊神社の神官、そして、実際の祭の担い手である村人たちの三つのポジションから検討し、それによって、結果的にそれが祭の実践の変更を余儀なくさせていくプロセスを辿っていく。

 藩内の秩序を維持し、その運営を円滑にはこぶべく公権力に助言する立場にある知識人たちにとって、「人身御供の祭」というレッテルは許すまじき汚名であり、払拭すべき対象であったと考えられる。したがって、当初は、いわばエスノセントリズム的な文脈の中で、こうしたレッテルに対し感情的な拒絶反応が示されるが、儺追祭での暴力が藩内の治安上の取り締まり対象と目されるようになると、そうした公権力による祭の統制と支配を正当化し、補強するために逆にその「人身御供の祭」というレッテルが巧みに利用されるようになる。つまり、外部の知識人によって貼られた「人身御供の祭」というレッテルは、儺追祭がいかに非道徳的な祭であり、ゆえに改変されるべき祭であるかを説得的に示すレトリックとして活用されたのだ。

 また、一方の尾張大国霊神社の神官たちは、当初「人身御供」のレッテルに全く無関心であったが、藩による祭への介入が露骨に行われ、祭祀の変更が余儀なくされるのにともなって、しだいに祭の由緒を説明する文脈の中に否定的に取り込んでいくようになる。なぜなら、儺追祭存続の危機に対応して儺追祭を歴史的、国家的に意味付けることが神官たちにとっての切迫した課題となったことで、そうした儺追祭の合理的な説明を裏面から補強するものとして、「人身御供」説の否定が必要になったからである。

 このように外部の知識人から貼られた「人身御供の祭」というレッテルは、尾張藩の知識人や神官の様々な思惑の中で、ある場面では否定され、またある場面では利用されることによって、結果的に、公権力の介入による祭祀改変という事態の発生を引き起こす要因となったことがわかるだろう。

 しかし、ここで更に重要なのは、このような祭の大きな変貌の中で、その担い手である村人の間に、「人身御供の祭」という語りが、自分たちの祭の由来を説明する、いわば「自己の語り」として受容されていくことをどのように理解すべきか、ということである。私は、その背景を祭祀改変による祭の現場の変容に求めたい。というのも、寛保三年の祭祀改変の命とは、儺負人を無差別的に捕えてくる儺負捕りを禁止するものであり、以降は、一貫文を支払って儺負人となる者を雇うようになったからである。つまり、祭祀改変によって、祭は、予定調和的な結末を常にむかえる演劇的要素の強いものへと変貌したのであり、そこには、自分に暴力の矛先が向くかもしれないという、それまでの祭を成り立たせていた恐怖や緊張関係はもはや希薄になっているのである。とすれば、「人身御供」の語りがそうした中で受容されたのは、それが希薄化した祭の暴力性を補完するものであったからだと考えることはできないだろうか。すなわち、「自己の語り」として受容された「人身御供」の語りとは、祭における緊張関係を再現し、新たな暴力を誘発する想像上の装置であったのだ、と。