大阪大学大学院文学研究科学位論文(2001年12月14日提出)

『人身御供祭祀論』

  
六車由実

2002年3月博士号(文学)取得



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 目 次

はじめに
 本研究の関心と目的
 本論の構成

序章 「人身御供」はどのように論じ得るか?
 一 柳田の供犠論の揺らぎ
 二 供犠論前史―モースの食人説をめぐる明治期の知識人たちの論法―
 三 大正期の供犠論の展開―皇居の「人柱」事件から―
 (1)事件の経緯
 (2)『中央史壇』を中心にした供犠論の展開
 (3)昭和期の沈黙
 四 おわりに―己の歴史として― 

第一章 「人身御供の祭」という語りと暴力
 一 問題の所在―近代知識人の道徳意識と「人身御供」―
 二 近世の儺追祭と「人身御供の祭」というレッテル
 (1)近世知識人による「人身御供の祭」の記述
 (2)近世の儺追祭の様相―恐怖と緊張の現場―
 三 祭祀改変と「人身御供の祭」
 (1)尾張藩の知識人による対応とその変容
 (2)神官による説明体系の転換
 (3)村人たちによる「人身御供の祭」という語りの受容
 四 「人身御供の祭」の行方と祭における暴力
 (1)祭祀改変という事態がもたらした祭の現場の変動
 (2)反復される暴力と公権力による統制、そして「人身御供」の語り
 五 おわりに

第二章 祭における「性」と「食」
 一 問題の所在―儺追祭のケースを振り返って―
 二 人身御供祭祀の諸相―「人身御供」に擬された女性が登場する祭―
 三 人身御供祭祀と巫女との関わり―上井説への疑問―
 四 「神の性的奉仕者」から「神の食べ物」へ―祭における「性」と「食」の関係―
 五 「犯す神」と「喰らう神」―根源的な暴力への期待―

第三章 人身御供と殺生罪業観
 一 はじめに―葛・諏訪神社の供養塚―
 二 人から獣、そして魚へ―殺生罪業観の浸透―
 三 殺生の罪の緩和と「人身御供譚」

第四章 人形御供と稲作農耕
 一 問題の設定
 二 人形御供の諸相
 (1)八尾市恩智神社の御供所神事
 (2)奈良市西九条町倭文神社の蛇祭
 (3)大津市下坂本の両社神社・酒井神社のおこぼまつり
 (4)草津市下笠の老杉神社のオコナイ
 三 人形御供の祭における役割
 四 村落組織としての宮座との関係
 五 人形御供の発生について
 (1)宮座の祭の展開から
 (2)稲作農耕の発展と殺生罪業観の浸透から

終章 人柱・人身御供・イケニエ
 一 人身御供譚は暴力排除の物語なのか?―赤坂憲雄の人身御供論への疑問から―
 二 人柱と人身御供
 三 イケニエの置き換え
 四 神を喰うこと/神に喰われること
おわりに



 要 旨


 「人身御供譚」とは、人を神の食べ物として犠牲にする物語であり。そこには、美しい娘や幼子が無残にも神に貪り喰われる様子がリアルに描かれている。いったい、人々はなぜそのような恐ろしい物語を伝承してきたのか。そして、なぜ祭の度ごとにそうした物語の悲劇的な場面が想起され、再現されなければならなかったのか。
 本研究は、そうした血腥い「人身御供の語り」がその由来譚として伝承される祭(これを「人身御供祭祀論」と呼ぶことにする)の分析を通して、祭に要請される「暴力」とその意味を中心的な考察対象とする。
 まず、「序章 『人身御供』はどのように論じ得るか?」では、本研究全体の基本的な関心を提示する目的で、近代の知識人や研究者がこの主題に対して具体的にどのような姿勢を表明してきたのかを確認しながら、問題の所在を明らかにしていく。
 言うまでもなく、カニバリズムや人柱は文明の側から見れば野蛮の象徴であるから、開国以来、急激な西洋化・近代化を国是とし、その国家目標を共通に担ってきた知識人にとっては、当然そうした野蛮の象徴は否定され、隠蔽されなければならない国家的な汚点であった。しかし、供犠をめぐる当時の知識人の対応は、それぞれの時代ごとに差が大きいことも重要である。特に、大正期の皇居二重櫓下から発見された人骨については、知識人たちの中にはこの骨を人柱であったと認める者も多く、さらにこの事件をきっかけにして、人柱や人身御供などの供犠の問題を日本文化の中でどのようにとらえるべきなのか、積極的な議論が繰り広げられていくのである。そこには、そんな野蛮なことをしたはずがないという明治期に顕著だったエスノセントリズムは薄れ、今日から見ても驚くほど文化相対主義的な立場が貫かれている。
人を殺して犠牲にするという残虐な歴史を、他者にではなく、また大昔の過去としてではなく、己の内に生き続けるリアルとして引き受けていく。大正期に展開された供犠論のそうした姿勢を明らかにすることで、本論で取るべき方法について検討していく。
「第一章 『人身御供の祭』という語りと暴力」では、「人身御供」の語りがどのように祭の中で受容され、それがどのような意味をもっていくのかを明らかにする。
 ここで取り上げるのは、尾張大国霊神社で行われる「儺追祭」である。この祭はそこに孕まれる暴力性ゆえに、近世以来、都会の知識人から「人身御供の祭」と見なされてきた。そこでは、毎年、その年の災厄を負わせる「儺負人」として往還の村人を無差別的に捕らえてくる儺負捕りが行われ、運悪く捕らえられた者は、武装した寄進人の集団から殴る蹴るの暴力的な扱いを受けていたのだ。すなわち、近世の儺追祭においては、村人たちの恐怖と緊張の中で祭が行われていたのである。都会の知識人による「人身御供の祭」という記述は、そうした祭における恐怖や不安についての一つの表現だったと考えられる。
 しかし、寛保三(一七四三)年に尾張藩により下された祭祀改変の命令を契機に、儺追祭の現場は一変する。というのも、以後儺負人となる者を雇い入れるようになったことで、それまでの祭を成り立たせていた恐怖や緊張関係は希薄化し、祭は予定調和的な結末を常にむかえる演劇的要素の強いものへと変貌していくからである。興味深いのは、そうした祭の変動にともなって、「人身御供の祭」の語りが、祭の起源として村人たちの間に受容されていくことである。つまり、「自己の語り」として村人たちに受容された「人身御供の祭」という語りは、今度は失われた「原初の暴力」の記憶を喚起し、祭を活性化する役割を与えられていると考えられるのである。
 「第二章 祭における『性』と『食』」では、人身御供譚を祭の由来として伝承する人身御供祭祀の儀礼を分析することで、そこに示されている「性」と「食」のモチーフを「暴力」の問題としてどうとらえることができるのかを検討していく。
 ここで取り上げるのは、祭での女性奉仕者が物語中の人身御供に重ね合わされて表現されるタイプの祭である。特に、このタイプは、近畿地方の宮座祭祀に多く見られる。そして重要なことは、この人身御供とされる女性に、「食」と「性」の二つのイメージが付与されていることである。上井久義は、村落祭祀における女性の役割が、神がかりをし託宣を下すヨリマシから神饌の供進役へと変容したことを指摘しているが、本章ではこの上井の議論を参照しながら、祭における「性」と「食」との関係を次のようにとらえていく。すなわち、祭に奉仕する女性からヨリマシ的性格が失われ、その役割が形骸化していくことに対応して、女性イメージも「神の性的奉仕者」の上に「神の食べ物」のイメージが重ね合わされていったのではないか、ということである。
そして、重要なのは、男性中心の頭屋制による祭祀組織が確立していく中で、そうした「神の食べ物」のイメージが女性に付されていったことである。すなわち、祭が制度化されることで、それまでは突発的にカオス的な力で人間に猛威をふるうものとしてとらえられていた神の姿が、神饌のもてなしを受ける穏やかで平和的なイメージへと変容していくのである。うら若き娘に喰らいつき、血を滴らせながら容赦なく喰い尽す暴力的な神の姿を想像する人身御供譚とそれになぞらえた人身御供祭祀は、祭の中にかつての神の暴力性を鮮明に呼び起こすものであったと考えられるのである。
 「第三章 人身御供と殺生罪業観」では、これまで検討してきた人身御供祭祀が内包する暴力のテーマを、動物供犠に見られる殺生の問題としてとらえなおす。
 ここでは、花巻市葛の諏訪神社に伝わる人身御供の物語と、それにもとづく祭のニエの置き換えの問題を検討する。鹿から鮭、雑魚へというニエの変化は、この地方への殺生罪業観の浸透と関係があると考えられる。つまり、殺生を罪業とする仏教的な観念が、中央から地方へ、貴族から庶民へと浸透していくのに応じて、それまで最も価値のあるものとして神前に捧げられた獣類のニエから、それほど罪責観を感じなくてもすむ魚類に置き換えられていったのである。
 また、このように考えてくると、ここでは最初、人のイケニエが供えられていたという人身御供譚の役割に関しても、次のような仮説を立てることができるだろう。すなわち、殺生の罪として最大のものが人間に対する殺生であることは言うまでもないことだから、初めのニエが人であったことを強調すれば、それに比較して、現在のニエである雑魚の殺生の罪が相対的に軽度なものになるだろうということである。だとすれば、人身御供譚の背後には、人が現実の生活の中でさまざまな殺生行為を行わなければ生きていけない人間の生そのものが背負い込んでいる暴力性についての、負の記憶が存在するということだろう。
「第四章 人形御供と稲作農耕」で考えるのは、人身御供の物語と直接間接に関係する特異な習俗なのだが、祭において人形御供を神に供え、それを神前から下ろして氏子が食べる儀礼行為の問題である。これは外形的には、人身御供を体現している人形を食べるのだからカニバリズムを連想させるものであり、だとすれば、なぜそのような暴力的なイメージをともなう儀礼行為が行われるようになったのかが検討課題となる。
人形御供を神前に供える祭では、餅を人形にした神饌をかつての人身御供の代わりに供えると言ったり、ヒトミゴクと呼ぶ人形の神饌に藁で作った蛇を載せるなど、名称にも形態にも人身御供の物語が濃厚にあらわれているが、重要なのはここでの人形御供が神を依りつかせる形代の役割をも負っていることであろう。言い換えると、人形御供の人形は神霊の宿りを具現化したものであり、だとすればそれを氏子が食べるのは、そこに宿った神霊を体内に取り込む行為にほかならないということである。人々は、このようにして目に見えない神の姿を人の形をした神饌で表わし、それを食べることによって、神の霊威を確実に体内に取り込み、生命力の回復・強化を願ったのであろう。
また、こうした祭の形式が近畿地方の農村部に多いということから、それを宮座の存在とも関連づけて考える必要が出てくる。宮座組織がもっている性格としては、内部の宮座成員間の平等性という側面と、外部の成員以外の者に対する特権性という側面との、二重の性格が指摘されてきた。そして、人形御供の儀礼はちょうどその二重の性格に合致しているのではないだろうか。すなわち、彼らがともにかつては頭屋として自分の子供を人身御供に出し、その負の記憶を共有するという平等性を確認するとともに、また、その祭において神を具現化した人形を直会で共食する点で、宮座成員としての特権的な地位を確認することにもなるのである。
 「終章 人柱・人身御供・イケニエ」では、改めて「人柱」「人身御供」「イケニエ」の概念規定をすることによって、人身御供譚を伝承する祭の特徴をより鮮明に浮かび上がらせ、また最終的にはその人身御供祭祀の日本文化における意味を考えていく。
 本章では、これまで明確な区別なしに用いられてきた「人柱」「人身御供」「イケニエ」について、まず、私なりの概念規定を行う。そしてその作業を通して、赤坂憲雄などが暴力排除の論理によって解釈するイケニエの置き換えの問題を別の側面から議論していく。第三章で既に問題にしたように、穢れ意識や殺生罪業観という解釈によって、祭の中で供えられるニエは置き換えられていくわけだが、それは生きた動物を殺す暴力的なニエから、鳥や魚、そして穀類へと、祭における暴力性が希薄化していく過程であったと言えるのである。
 そもそも東アジアでは人間や動物が局面に応じて殺され、イケニエにされてきたのであり、祭の場に暴力が積極的に発現されていたのである。ただし、この場合、暴力は、人や動物を殺すという行為によって完結するわけではない。むしろ、イケニエ儀礼で重要なのは、そのイケニエを人々が喰うことである。イケニエ儀礼においては、日常的な狩猟行為と異なり、すぐに絶命させないような残虐な殺し方が志向される。それは、生命あるものがむかえようとする断末魔の迫力をより一層強く印象づける演出であり、人々は悶え苦しむイケニエの姿に神聖さを感じ、そこに神を幻想するのである。祭においてイケニエを喰うというのは、生命力を爆発させたイケニエを食べつくすことで神と一体化するためであると言えよう。
 このように考えてきたとき、動物を殺して神に供える暴力的なイケニエ儀礼が廃された日本の農耕社会の祭に、人が神に喰われるという残酷な物語が伝承されることの意味が鮮やかに浮かび上がってくるだろう。すなわち、四足獣から二足へ、魚へそして穀物へとニエが次々と暴力性の希薄なものへと置き換えられることで、ニエを喰うことでは神と人との一体性を経験することが困難になったが、逆に、喰われることで神と一体化する原初的な神と人との関係を語ることで、祭の中に、神と一体化する身体感覚を再び呼び起こそうとするのが人身御供譚であったのではないか、ということである。
 人々は、暴力を排除しようとする一方で、希薄化した生の実感をもう一度身体に呼び覚ましたいと願う。人身御供譚とそれを伝承する人身御供祭祀は、そうした人々の暴力への願望に支えられているのである。




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