「人形御供を通してみる日本の稲作祭祀における食物の役割」
  
六車由実

『食文化助成研究の報告』10 財団法人味の素食文化研究センター(2000・12)



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1 問題の設定


 近畿地方の農耕儀礼、とくに稲作の祭には、米や農作物で象った人形(ひとがた)を供物として神に供えるものがある。そして、これらの祭には、たいていその由来として、昔「人身御供」の風習があって、今は、その代りに人形の供物を供えているのだ、といういわゆる「人身御供譚」が伝承されている。いったい、「人身御供」の代りに人形を供えるとは、どういうことなのだろうか。
 民俗学では、この人形御供についてほとんど議論されていないというのが現状である。なぜなら、民俗学においては、人形(ひとがた)といえば、もっぱら、災いや穢れを祓う道具として扱われてきたからだ。例えば、『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)の「人形」の項には、「災いや穢れを祓うために、人の身代わりとしてつくられた人体を模したもの。紙などの人形を身体の上でなでまわして、人の受けた災いや穢れを背負わせてから流したり焼いたりして災厄を除く。」と定義されるのみである。
 人の身代わりとして焼いたり捨てたりして災厄を祓う人形。私が、本研究で扱おうとする人形の神饌は、明らかにそうした理解から外れるものであることをまず確認しておかなければならない。人形御供は、決して焼いたり、捨てたりはされない。それは神に食物として捧げられ、最終的には氏子たちに食べられ、彼らの体内にとり込まれることにその特徴があるのである。とすれば、この人形御供は、平安時代以降、穢れや災いと人間との関係を断つための道具として発展してきた人形とは、別系統の流れの中に位置づけることができるだろうし、それゆえに、その発生や祭における意味づけを改めて検討する必要があるのである。
 ところで、人形御供は、先にも述べたように、かつての「人身御供」の代りに神に供えられる一方で、祭の後にはそれは氏子に配られ、彼らはそれを好んで食べる。すなわち、それは、「神の食物」とともに、「人間の食物」とも見なされているのである。かつて柳田国男は、日本における「人身御供」の実在性を主張した加藤玄智との論争の中で、「人の肉や血はいずれの時代の思想においてもわが国では決して御馳走にはあらず」〔柳田 1911 488〕と述べ、加藤を厳しく批判したが、まさに神と人との「御馳走」である人を象った供物についても、これを人身供犠や食人習俗と短絡的に結びつけて解釈することは、とりあえずは避けなければならないだろう。むしろ、必要なのは、個々の祭において、人形がどのような扱いを受けているのかを注意深く検討することであり、それを通して、人形を神に供え、そして人もそれを食べるという行為が、祭の中でどのような意味をもつのかを慎重に考察していくことであると思われる。
 そうした問題設定のもとに人形御供の祭のいくつかの事例を調査し、本論では、その調査結果を報告した上で、祭における人形御供の役割を検討した。そして更に、その周辺の祭との関係から、人形御供の発生した歴史的・地域的背景の考察を行った。本稿では、紙数の制限もあるので、調査事例のうち、奈良市西九条(さいくじょう)町の倭文(しずり)神社の祭の概要を紹介しながら、その分析から明らかになる人形御供の祭における役割についての報告を中心に述べる。


2 人形御供の祭の概要―倭文神社の蛇祭から―

 倭文神社では、毎年、10月10日に蛇祭と呼ばれる祭が行われ、かつての「人身御供」の代りであるという12体の人形の御供が供えられる。
 人形は、「ヒトミゴク」または「御穀盛」とも呼ばれ、海山や田の恵みを使って形作られている。それは次のようなものだ。桧の曲物に刺した麦藁の束の周りを、サオモチと呼ばれる細長い餅を5cmぐらいに切った角餅でまんべんなく飾り、その上に大きな里芋(地元では泥イモと呼ばれる)のスライスに人の顔を描いて乗せる。人形の首の周り<写真1>倭文神社の蛇祭の人形御供には昆布を巻き、頭のてっぺんには五色の御幣を刺して飾る。この型の人形は10体作られて、本殿および蛇塚、そして時風神社に供えられるが、本殿脇にある若宮の小さな祠には、これとは別に、ほぼ同様の人形の頭上にミョウガを三つ刺したものと、首のあたりにズイキで作った蛇をつけたもの<写真1>を作り、この2体を供えることになっている。
 なぜ、若宮への供物が他と区別されるのか、現在ではその理由が説明されることはない。が、特に、蛇を載せた人形が、他と区別されて「蛇(じゃ)」と呼ばれ、祭のクライマックスを彩る重要な役割を負っていることは注記しておく必要があるだろう。
 人形御供の献饌に先立って、本宮当日、その年の当番組の氏子たちは人形御供を担いで西九条町内を練る。現在では、神社の社務所から出発し、町内を巡った後再び神社に戻ってくる形をとっているが、以前の行程は、頭屋宅から神社までであったという。すなわち、昭和40年代ごろまでは、この地域には宮座組織があって、祭はその年の頭屋によって受け持たれており、頭屋宅に作ったお仮屋(「お神入りの屋形」と呼ばれた)に祭までの期間御神体を安置していたというから〔奈良市史編集審議会 1968 349〕、現在のこの人形御供の町内巡りは、当時の頭屋から神社への神の渡御の名残であるわけだ。
 その後、人形御供の献饌がまず本殿から行われる。そして人形を供える際に氏子たちが掛け合う「ヨーイヨーイ」という掛け声にのせられて、徐々に祭の雰囲気が盛り上がってきたころ、若宮への献饌が始まるのである。ミョウガを付けた人形が上げられると、いよいよ蛇を載せた人形だ。氏子たちは、「蛇(じゃ)があがるぞー」と大声で叫びながらそれを勢いよく供えていく。そしてそれを合図として、本殿前に設えた大松明に火が灯されるのだ。そして、祭の終了後、人形御供は解体されて、氏子たちに配られる。


3 祭における人形御供の扱い方

 このような倭文神社の蛇祭から見てみると、祭の一連の流れの中で、人形御供が二つの扱われ方をしていることがわかる。一つは、「人身御供」の代り(もしくは、「人身御供」そのもの)として、もう一つは、神の姿を具現化する形代としてである。

1)「人身御供」の代わりとして神に供える

 人形御供が「ヒトミゴク」と呼ばれていることからも、「人身御供」として扱われていることは明らかだが、それがこの祭の中で特に重要な意味をもつのは、人形御供の若宮への供進を合図に大松明に火をつける場面であろう。
 それは、この松明への点火が地元では大蛇退治だと説明されていることからもわかる。すなわち、弘法大師(理源大師とも言われる)が、「人身御供」を要求していた大蛇を三つに切って退治したということを由来として、人形御供を供え、また蛇と呼ばれる大松明に火をつけるようになったというのだ。つまり、人形を神前に供え、そして蛇を乗せた人形の献饌を合図に大松明へと点火する祭における一連のプロセスは、この「人身御供譚」を儀礼的に再演したものなのである。
 このような「人身御供譚」の演出が明瞭にうかがえるものとしては、他に、草津市下笠の老杉神社で行われるオコナイが挙げられる。そこでは、現在は「人身御供」の伝承を採集することはできないが、蛇を象った「ヤマタノオロチ」とも呼ばれる注連縄を拝殿にとぐろを巻いた状態で設えて、その前に人形を載せた膳を供えることや、更に祭のクライマックスには、氏子たちが大声を張り上げながらその蛇縄を担ぎ出し、鳥居に巻きつける一連の所作には、まさに、「人身御供」を要求する大蛇の退治をイメージさせるものがある。
 赤坂憲雄は、「人身御供譚の構造」〔赤坂 1989〕の中で、「人身御供譚」がいずれもその終焉を物語る形式をとっていることから、「人身御供」という物語を伝承するということは、かつて人が犠牲になったという記憶を呼び起こし、そして同時にその終焉を確認することによって、共同体の秩序の更新を図るものであると指摘している。
 赤坂の言うように、伝承される「人身御供譚」そのものがこのようなメカニズムを有するとすれば、その物語になぞらえた演出がなされる祭も、そうした「人身御供」の終焉を儀礼的に再演することによって、共同体の秩序を更新するものであると考えられる。そして、倭文神社の蛇祭や老杉神社のオコナイでは、それが邪神退治の強調によってドラマティックに演出されていたが、人形御供を「人身御供」の代りとして神に供える行為そのものが、そうした共同体の秩序更新を図る民俗的思考に基づいたものであると言っていいだろう。すなわち、人形御供は、「人身御供譚」を儀礼的に再演するための一つの重要な舞台装置としての役割を担っているのである。

2)神の形代として祀り、直会で食べる

 「人身御供」(の代り)として扱われる人形御供は、また一方では、神の形代とも見なされていると言える。蛇祭でのかつての頭屋から神社への御渡りは、頭上に御幣を刺した人形御供を中心に行われていた。つまり、そこで人形御供は、頭屋のお仮屋に一定の期間安置していた神霊を依りつかせる形代としての役割を負っているのである。
 また、大津市下坂本の両社神社・酒井神社で行われる「おこぼまつり」(1月8日)での人形の扱いには、そうした神の形代としての役割がより明瞭にうかがえる。ここでは、蛇祭と違い人形そのものは食べ物で作られているわけではないが、大きな餅の上に人形を載せたものを総称して「オダイモク」<写真2>と呼んでいることや、神前にも人形を乗せたまま供えることからすると、人形と餅とが不可分の一体的な供物と見なされていると言える。本祭の前夜、ヤド(頭屋宅)に設えた人形を乗せたオダイモクに対し、宮司によって降神の儀が行われ、昭和30年ごろまでは、宿直(とのい)といって徹夜でオダイモクのお守りをしていたという〔大津市教育委員会文化財保護課編 1975 <写真2>酒井神社のおこぼまつりで供えられるオダイモク20〕。そして、翌日未明に、メンダイ(餅を伸す際に使った木板)にオダイモクを乗せて、ヤドから神社まで運び出すのである。
 こうしたオダイモクの扱いには、まさに、人形とそれを載せた餅とを神の形代とする考え方がうかがえよう。そして重要なのは、神の形代となるのが食物であり、最終的には氏子に配られて、彼らの体内にとり込まれるということである。
 祭の際に神前で神とともに同じ食物を食べたり、もしくは、祭の後の直会の席で、下してきた神饌を氏子がともに食べる、いわゆる(神人)共食が、日本の祭を構成する重要な要素であることは、既に柳田国男が『日本の祭』〔柳田 1942〕において指摘していることであり、またそれは、民俗学においては一般的な理解になっていると言える。つまり、人々は、山海や里の御馳走を捧げることで神をもてなし、その御馳走を共に食べることで、神の霊威を身につけることができ、そして生命力を回復させたり、子孫繁栄、生活の安寧などを得ることができるという考え方が、日本の祭に通底しているというのである。
 神前に供えた人形御供を氏子たちが食べるという行為も、基本的にはそうした民俗的思考に基づいたものであることは間違いない。が、食物で人形を作り、それを神の形代とするこれらの祭においては、そのような神の霊威を体内にとり込み、生命力を回復させようという人々の願望が、より直接的に表現されているのではないかと思われる。つまり、目に見えない神の姿を人の形として食物で具現化することによって、より確実に神の霊威を体内にとり込み、神と一体化する方法がここでは案出されていると考えられるのである。それは、神人共食といった、いわば抽象的な神と人との関係の表現よりも、より直接的で、即物的な表現方法だと言えるだろう。
 以上検討してきたように、人形御供は、神に捧げられる「人身御供」と、そして神の姿との二つのイメージを負っていると言える。すなわち、人形御供を供える祭は、人形御供をかつての「人身御供」の代りとして神に捧げることで、「人身御供」という習俗の終焉を儀礼的に再演し、それによって共同体の秩序の更新を図ると同時に、それに神の姿を具現化させることで、より確実に神の霊威を身につけて、生命力の回復を願うものであるのだ。


4.宮座という村落組織との関係

 ところで、人形御供の事例が近畿地方の稲作の祭に見られることは既に述べたが、祭の形式に注目してみると、それらは宮座組織のもとで行われるという点で共通している。とすれば、人形御供と宮座という村落組織との関係についても考える必要があるだろう。
 宮座については、民俗学や歴史学などにおいて既に多くの研究がなされてきており、その村落組織の多様なあり方も報告されている。例えば、年齢による構成員間の厳しい上下関係が存在する場合が多いが、必ずしも全ての宮座がそうした年齢階梯制に基づいているわけではないこと、また、特定の家によって特権的に宮座が構成される、いわゆる株座と、構成員が村全体に開かれている村座とに類型化できることなどが指摘されている。実際、本研究で調査した事例でも、それぞれの地域において宮座の性格は様々なのである。
 しかし、伊藤幹治や高橋統一などによる議論(伊藤 1995、高橋 1987)を参考にしてみると、様々な様相をみせる宮座という村落組織のいずれもが次の二つの共通した特徴をもっていることは確かなようだ。それは、宮座の成員内部における平等性と、成員外部に対する特権性である。
 まず、成員内部における平等性だが、それは頭屋制によって保証されている。近畿地方の宮座においては、宮座加入の家の家長が、毎年交替の当番制で年番神主や祭の準備、その賄いなどを担う頭屋になることを義務づけられている。その順番は、家の配列や家長の年齢順、また神籤による順番など多種多様であるが、最終的には宮座加入の全ての家が頭屋を引きうけることになるという点で、一つの家に恒常的に権力の集中することを避けることで宮座内の平等性を保つ仕組みになっていると言える。
 一方、成員外部に対する特権性、もしくは排他性だが、株座も村座も家が編成単位になっていて、男性が家を代表して宮座の成員権をもっているし、また、加入条件が原則として定住農家に限定され、移住した家は宮座への加入が認められない場合も多いという。つまり、宮座とは、村の運営や祭の中心的役割から女性、新参の住人などを排除するシステムでもあるわけだ。
 このような宮座のもつ平等性と特権性の二つの特徴を確認した上で、改めて祭における人形御供の二つの扱い方を見てみると、人形が宮座という村落組織の存続に大きな役割を果たしてきたことがわかる。
 まず、人形を「人身御供」の代りとして神に供えるという行為は、祭の中で宮座内部の平等性を再確認する儀礼的な演出ではないかと思われる。宮座の祭に伝承される「人身御供譚」では「かつて頭屋の子供を毎年犠牲に出していた」と語られる場合が多いが、これは宮座を構成する家のいずれもが犠牲を出したことがあるという負の記憶を共有するものであると言える。つまり、言い換えれば、赤坂の言うように共同体全体の秩序更新というよりも、この場合、そうした負の記憶を共有することによって、宮座成員間の平等性を確認し、結束力を固める語りとなっているのである。したがって、祭の中で、「人身御供」の代りとして人形を神に供えるという行為は、そうした成員間の平等性を儀礼的に確認する演出であると言えるだろう。
 また、一方で、神霊を具現化した人形を直会で食べるという行為だが、これは、祭の場において、宮座の特権性を演出するものであると言える。宮座において直会は重要な要素であるとされており、例えば、肥後和男は、「座人(宮座の成員―引用者注)の交歓を目的とするもの」(1945:329)と指摘しているが、それは言い換えれば、その直会の席から宮座の構成員以外の者が排除されるということであり、いわばそれは外部に対しては宮座の特権性を演出する場でもあるわけである。そして、直会の席の中心に人形御供が用いられる場合は、更にその成員内部と外部との差が視覚的に強調されると言える。というのも、既に見たように、人形御供は神霊の具現化したものとして扱われているのであり、とすれば、人形を食べられる者、すなわち宮座成員と、食べられない者、すなわち成員外の人々との差は、神の霊威を身につけられるものと身につけられないものとの違いとして意識されると考えられるからだ。


5.人形御供の発生の歴史的背景―今後の課題も含めて―

 以上、人形御供の祭における役割を、その扱い方と宮座という村落組織の特徴との関係から論じた。このように見てみると、では、人形御供の祭とは、どのような歴史的な背景のもとに発生したのかを考える必要が出てくる。本論では、それを二つの側面から検討してみた。一つ目は、宮座組織における頭屋儀礼の展開からである。
 前章で、人形御供の祭における役割と宮座という村落組織の特徴との密接な関係を指摘したが、近畿地方の宮座のもとで行われる頭屋儀礼には、人形御供の祭のほかにも、「人身御供」と深く関わる祭、例えば、供物を運搬し神前に供進する女性を「人身御供」に擬する祭などが多く見られる。既に、私は、拙稿「『人身御供』祭祀論序説」〔六車 2000a〕で、そうした祭が、宮座組織のもとで、男性を中心とした頭屋儀礼が確立し、それにともなって祭の中心から女性が排除されていく過程と大きな関係があるということを論じた。
 本稿ではその内容の詳しい紹介は割愛するが、宮座のもとで行われる人形御供の祭は、頭屋制確立の過程で発生した、この女性を「人身御供」に擬する祭の展開に関わっていると考えられる。というのも、調査した人形御供の祭の中で、西宮市小松の岡太神社で行われる「一時上臈」という祭(10月11日)に、供物を供える女性の役割が喪失し、その後人形御供が登場するその祭の変容の過程を、近世の史料である『摂陽落穂集』によってたどることができるからである。
 他の事例については、その変容過程がわかる史料は今のところ見つかってはいないが、いずれの祭においても供物の供進役が男性によって担われていることや、女人禁制が固く守られているものもあることなどは、人形御供の発生とそうした宮座の祭の展開とに因果関係があることを物語っているように思える。この点については、個々の祭における祭祀組織の調査を続けたうえで、更に検討していく課題である。
 また、人形御供が発生する背景を考える際に、もう一つの重要な側面は、日本における稲作農耕の特殊な展開との関係である。ここでいう特殊な展開とは、水田開発が進行するとのパラレルな関係で、稲作農耕の儀礼から動物供犠や動物の贄が欠如していったということを指している。その歴史的な背景については、国家の稲作志向の政策と、仏教的な殺生罪業観、そして神道的な穢れ意識との複雑な絡み合いからそれを考察した、原田信男の『歴史のなかの米と肉』〔原田 1993〕があるが、稲の豊穣を願って行われる人形御供の祭についても、そうした日本の稲作農耕の展開の大きな流れの中で見る必要があるだろう。
 実際、本研究で扱った事例の中にも、そうした動物供犠や動物の贄が祭の場から次第に排除されていった痕跡を残すものがある。一例を挙げれば、岡太神社では、毎年正月9日に、祭神の恵美須神がシシ打ちをするのでその夜は各家では表戸を閉じて謹慎する風習があった、と伝えられている。シシ打ちとは、三信遠の狩猟の模擬儀礼でも使われる、猪や鹿の猟を意味する言葉であり、また、同じ西宮市の西宮神社の正月儀礼でかつて広田御狩り神事という儀礼が行われていたことからすれば、この岡太神社でも、猪や鹿を捕らえる御狩神事が行われていたことは容易に想像できよう。
 今回は十分に議論することができなかったが、重要なのは、稲作儀礼の中からの、そのような動物供犠の喪失が、稲作農耕を生業とする人々の生活にいったいどのような影響を及ぼすものであったのかということを改めて考える必要があるということだ。というのも、祭における人形御供の役割は、動物供犠の喪失を一面において補完するものではないかと考えられるからである。動物供犠が、血の滴る動物の肉を最も生命力に満ち溢れるものとして神に捧げ、そして祭の場で人々がそれを食すことだとすれば、祭の中で神霊を具現化し神の霊威を体内にとり込むための直接的即物的な方法である人形御供は、そうしたかつての動物供犠に表現されていた農耕民の生命力への期待を、稲作儀礼の中に新たに再現する表現方法だとも言えるだろう。
 本研究で分析した結果を踏まえた上で、宮座組織における頭屋儀礼と動物供犠との関係についての議論〔上井久義 1973〕なども参考にしながら、更に、稲作農耕の展開の中で人形御供の発生した背景を考察していきたいと考えている。


《参考文献》
赤坂憲雄(1989)『境界の発生』砂子屋書房
伊藤幹治(1995)『贈与交換の人類学』筑摩書房
岩井宏実編(1981)『神饌』同朋社出版
上井久義(1973)『民俗社会人類学』創元社
大津市教育委員会文化財保護課編(1975)『大津市文化財調査報告書(4)おこぼまつり』
                  大津市教育委員会
神野善治(1996)『人形道祖神』白水社
高橋統一(1984)「祭りと宮座」宮田登責任編集『日本民俗文化大系』9 小学館
奈良市史編集審議会(1968)『奈良市史』民俗編 吉川弘文館
原田信男(1993)『歴史のなかの米と肉』平凡社
肥後和男(1945)『宮座の研究』弘文堂
六車由実(2000a)「『人身御供』祭祀論序説」『日本学報』19 大阪大学大学院文学研究科
        日本学研究室
    (2000b)「人身御供と殺生罪業観」赤坂憲雄責任編集『東北学』3 東北文化研
        究センター
柳田国男(1911)「掛神の信仰について」(『柳田国男全集』5 ちくま文庫)
    (1942)『日本の祭』(『柳田国男全集』13 ちくま文庫)



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