書評



供犠論研究会ホームページ掲載(2000年12月30日)
赤坂憲雄著『東西/南北考―いくつもの日本へ―』
  岩波新書 2000年11月20日刊 \680
評者:六車 由実




 「ひとつの日本」から「いくつもの日本」へ。著者である赤坂憲雄氏は、ここ十年近く、まるでお題目のようにこの日本をめぐる知の変革の必要性を繰り返し唱えながら、一方で自らもまた東北という場所から、人々の営む多様な生活風景を、聞き書きという手法によりながら丹念に描き出してきた。「いくつもの日本へ」というこの問いかけが単なる奇を衒ったスローガンではなく、知識と経験の分厚い積み重ねと、そして熱意に基いた、氏の揺ぎない確信であることは、『東北学へ』(作品社)の三部作や『山野河海まんだら』(筑摩書房)などの意欲的な民俗誌を通して、あるいは氏が所長を勤める東北文化研究センター発行の季刊誌『東北学』(作品社)を通して、既に広く知られるところであろう。
 副題に「いくつもの日本へ」と冠された本書『東西/南北考』は、そうしたこれまでの一連の仕事を改めて体系づける構成になっており、私たちはそこに、赤坂氏の思い描く「いくつもの日本」の見取り図がいかなるものかを、はっきりと見てとることができる。氏は、これまでの日本文化論でも試みられてきた、列島を東西に分断してその文化的差異を論じる東西論が、結局は日本文化を均質的なものとみなす「ひとつの日本」の呪縛から解放されていないことを鋭く批判する。むしろそこに南北の座標軸を導入することで、都/鄙、支配/服属の二項対立を超えた、混沌とした「いくつもの日本」の歴史像が露になるはずだ、というのである。そして、民俗学のみならず、歴史学、考古学、言語学、そして生態学など様々な研究成果を総動員して、列島の東西南北に走るいくつもの文化的亀裂を探し当てていくのだ。
 本書の魅力の一つは、そうした「いくつもの日本」の見取り図が明かされる過程で、私たちが日本文化の特徴として自明視してきたことがことごとく否定されてしまうことだと言えるのではないだろうか。その容赦のない攻撃によって自らの凝り固まった観念が音を立てて崩壊していく様に、マゾヒスティックな快感を覚えるのはおそらく私だけではあるまい。
 例えば、縄文から弥生へ、という歴史の教科書で昔習った古代日本における時代の移行は、ある限定された地帯(「中の日本」)にのみ当てはまる歴史認識である、と指摘される(第4章「地域のはじまり」)。また、供犠論研究会の問題関心に直接関わるであろう第5章「穢れの民族史」では、日本人は穢れを忌み、清浄を尊ぶ民族である、という日本文化論の定型句が徹底的に否定される。人の死や月経・出産を穢れとし忌み遠ざける観念は、少なくとも弥生文化の定着しなかった北海道・北東北、そして沖縄には存在しないという。また、西日本の差別制度の根底にある肉食や皮革の処理にまつわる穢れの観念は、現在に至っても列島の南北の地では共有されていないことからすると、弥生以降の、畿内を中心とする西日本の文化が固有に創り出した社会的な制度に他ならない、というのである。ことに穢れの観念は、生理的なレベルの問題としてとかく普遍化して考えてしまいがちだが、赤坂氏は、日本文化の南北の異相へとまなざしを向けることで、穢れと生理とを結びつける回路を潔く断ち切り、それらが、歴史的文化的所産にすぎないことを見事に証明してみせたと言えるだろう。
 ここに鮮やかに浮かび上がるのは、日本文化の多元性であるとともに、稲作農耕を中心とし、穢れを忌み、天皇をいただく文化の列島における特異性である。国家や民族がもつとされる求心性や均質性を相対化する方法として、最近歴史学でも地域史研究が俄かに盛んになってきているようだが(『地域の世界史』シリーズ<山川出版社> など)、赤坂氏の「いくつもの日本へ」の試みは、そうした歴史学などの流れと呼応しながら、更に、日本文化論や歴史認識を変革する大きなムーヴメントへと展開していくに違いない。そしてそれは、列島の狩猟や供犠の問題を追ってきた供犠論研究会にとっても、大いなる刺激となるはずだ。
 さて、最後に、若手研究者に期待される役割を全うすべく、本書を読みながら感じた疑問をストレートに述べておきたい。それは、赤坂氏が「中の日本」とは異質な南北の生活風景をこんなにも真摯に描き出そうとしているのにもかかわらず、それを、縄文以来の伝統が受け継がれる文化と言うとき、あるいは穢れを忌むことなく、政治的な社会を形成しない文化と言うとき、いっきにその具体相が捨象され牧歌的なイメージのみが印象づけられてしまう、ということについてである。確かに、そのように読めてしまうのは、読み手の側が、すなわち私自身が、縄文という言説に対する拒絶感や、人の集まるところに政治ありきという固定観念に囚われているからかもしれない。だが、こうした氏の意図に反した言いがかりのような批判を回避するためにも、少なくとも次の三点は説明されなければならないように思う。
 まず一つは、何故に列島の南北では、数千年を隔てた縄文と現代とが直結して語られ得るのか、ということだ。そこには、本書でのように、縄文についての考古学の研究成果とフィールドワークに基いた民俗資料とを慎重に照らし合わせる作業とともに、その数千年の空白を埋めていく何らかの手続きが必要であろう。北について言えば、第6章「東北学、南北の地平へ」で言及されているように、蝦夷の時代の掘り起こしが重要であることは間違いない。
 また二つ目は、政治的な社会を形成する文化としない文化を分ける決定的な差異は何か、ということである。言い換えれば、何が政治権力を可能にしたのか、その起源が改めて問われるべきではないか、ということだ。本書の文脈に沿って理解すれば、赤坂氏は、政治の発生を、弥生のはじまり、すなわち稲作農耕の渡来に求めているようであるが、例えば、氏が「いくつもの日本」論の一つのモデルとしている、ピエール・クラストルの『国家に抗する社会』(水声社)では、狩猟から農耕への移行にともなって余剰生産物が生じたことで私的所有への欲望が生まれ、権力が生じていったというように、政治権力発生の過程を生産活動の変化によって理解する仕方について、徹底的な批判がなされている(しかし残念ながら、そこでは、権力の起源が「神秘」として結局は不問に付されている)。これにしたがうならば、支配権力の発生の根源に稲作農耕の展開を求める、従来の歴史認識におけるもう一つの自明性をもいったんは疑ってみる必要があるだろう。それによって、氏が決定的だと見なす縄文と弥生の間の断層そのものを相対化するような新たな断層が見出されるかもしれない。そうした上で、かつて赤坂氏が『異人論序説』(砂子屋書房)などで主題としていた王権の問題を東西/南北の座標軸から改めて問いなおしたら、どのような議論が可能であろうか。大いに期待されるところである。
 最後は、では、穢れを忌むことなく、政治的な社会を形成しない文化では、社会はどのような原理によって成り立っているのか、ということである。それを考える際におそらく重要となるのは、地域を、移動と広がりによって形づくられるもの、すなわち、拡散しかつネットワークとして結び合わされる経済や社会をつくるものと見なす視点ではないだろうか。濱下武志氏によれば、地域社会におけるネットワークとは、非組織的であり、非制度的であり、状況に応じて、局面に応じて、つながれ方が選択され、組みかえがおこなわれる、いわばアメーバー的行動によって特徴づけられる、という(「歴史研究と地域研究」濱下武志・辛島昇編『地域史とは何か』山川出版社)。列島の南北の地域を、南アジア、北アジアへと限りなく広がるネットワーク社会として、「いくつもの日本」論が展開していったとき、それらの景観は、組織化され固定化した「中の日本」とはより一層際立った位相として立ち現われてくるのではないだろうか。
 だが、このような問題を赤坂氏自身だけに求めるべきではないのかもしれない。むしろ、本書に触発されて、「いくつもの日本」論が列島のあちらこちらに巻き起こり、活発な議論の場が形成されていくことによっていずれ解決される問題だと言えよう。ただしその場合に重要なのは、そうした議論の場に中央の知識人だけではなく、地域の生活者が、地域を舞台にしながらいかに関わっていけるのか、ということであるはずだ。地域に住まう人々が、自らの積み重ねてきた歴史に基き、またそれを相対化する視点をもちながら、「いくつもの日本」について語りだす。それは、どのようにしたら可能となるのか。例えば、中央を媒介とせずに、地域社会が自ら世界中へ情報を発信し、互いに交流し情報交換できるインターネットという新たなネットワークが、一つの有効なツールとして活用できるかもしれない。これから氏の活動に求められるのは、啓蒙活動とともにそうした具体的な提案ではないだろうか。「いくつもの日本」論に共感し、大いに期待する私としても、東北の地で孤軍奮闘する氏の活動を、微力ながらできるかぎり応援していきたいと思う。


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