書評  工藤隆著『中国少数民族と日本文化
ー古代文学の古層を探る』
(勉誠出版 2002年7月発行 2800円)

〈古代の古代〉のイメージをめぐって


 私たちは、己れのなかにある古代的なるものをどんなときに感じるだろうか。古代的という言葉を、原初的と言い換えてもいいし、あるいは未開的と言い換えてもいい。表現はどうであれ、それは、自然のなかで人間が格闘しながらも、その恩恵を授かってしか生きられなかったそんな時代の身体感覚を意味している。生や死のリアルな現場から既に遠く隔たって生きている私たちは、鈍化した身体のなかにふと古代的なものがよみがえってくる瞬間を、いつもどこかで強く待ち望んでいるような気がする。
 本書の著者である工藤隆は、『古事記』や『万葉集』などの古代文学の分析を通して、日本文化の古層に埋もれた古代的なるものを探り出そうとする。が、その方法は、文字資料内での分析を重要視する従来の古代文学研究のあり方とは一線を画している。すなわち、『古事記』は、既に律令に代表される中国先進文化を積極的に導入していた〈古代の近代〉というべき時期に成立したのであるから、日本古代国家が成立するもっと以前、ムラ社会で人々が共同しながら自然のなかでたくましく生きていたころの日本文化の姿を探るには、文字に表される以前の、すなわち〈古代の古代〉の説明モデルをいかに作れるのかが問題になるというのだ。
 そこで、工藤は、中国雲南省の少数民族文化のなかに身をおくことで、その日本文化の〈古代の古代〉のイメージを作り上げようとする。ただし、工藤の目ははじめから雲南へと向いていたわけではない。当初は、〈古代の古代〉のイメージ作りのために、日本国内の民俗行事、特に沖縄の祭りを調査していた。しかし、沖縄の祭りも近代化の波のなかで変化してしまったし、またそもそも〈古代の近代〉を経て変質した国内の民俗事例では、古層を知るのには限界がある。そう感じて、更に原型を求めてたどり着いたのが雲南の少数民族だったというのである。
 古代文学研究者としては稀有な行動力によって工藤は何度も雲南に通い、少数民族の歌垣や祭りそして村の暮らしを本格的に調査している。特に、男女が恋歌を掛け合う歌垣については、既に、ビデオ映像付きの報告書(『中国少数民族歌垣調査全記録1998』大修館書店)を刊行しているように、『万葉集』や『古事記』などに記された日本の古代の歌垣を分析するための現場資料の蓄積に積極的に努めているのである。そして、本書では、ひとまず暫定的なものにすぎないということを断りながらも、自らの足でかき集めた膨大な資料をもとに、歌垣の〈古代の古代〉の姿から、様式化し〈文学〉として自立するまでの〈歌垣の現場のX段階〉を提示している。その大胆な仮説と演劇を見ているかのようななめらかなに流れる文体は私たちにここちよい刺激を与えてくれるのである。
 実は、工藤の仕事に触発され、かねてから雲南に行ってみたいと思っていた私は、工藤が中心となって運営するアジア少数民族文化学会主催の雲南歌垣見学旅行に参加する機会を得て、この夏に昆明から大理、そして麗江にかけて九日間の旅行をした。そこで垣間見た少数民族の文化には、日本文化を考えるための様々な民俗的素材がいまだ豊富に残されていて、私は雲南に滞在中見るもの触れるものの全てに対して興奮していた。だが一方で、衛星放送のアンテナが茶褐色の屋根に白く輝き、若者たちが携帯電話の呼び出し音をいたるところで鳴らしていることに象徴されるように、雲南少数民族の村社会のなかにも急速に近代化の波が押し寄せていることはまた確かであるようであった。
 工藤も本書のなかで、近代化の進行によって、雲南の少数民族社会から歌垣をはじめとする民俗社会の現場が失われてしまうことを懸念している。そして、だからこそ文化人類学などのフィールドワークによる資料の収集を専門とする他の学問分野と共同することで、日本の〈古代の古代〉を知るための「丸ごとの現場資料」を直ちに記録し、保存していかなければならない、と痛切に訴えているのである。
 様々な文化的要素が凝縮された雲南の少数民族社会は、民俗学を専門とする者にとっても大変魅力的な場所である。学問的立場や方法の違いを超えて共同研究の環を広げ、少数民族文化の記録に直ちに努めなければならない、というこの工藤の呼びかけに、私もできるかぎり応えたいと思っている。
 しかし、そうした前提のうえで、私が抱く一つの疑問を、最後に少しだけ述べておきたい。それは、〈古代の古代〉というもののとらえかたについてである。
 工藤は、本書のなかで、『古事記』以前を、〈古代の古代〉、すなわち真に日本的なるものの根源が存在した時代だとしている。そして、現代の雲南少数民族文化のなかには、日本の〈古代の古代〉をうかがわせる原型的な文化要素が生きているとして、雲南の調査を進めている。すなわち、工藤は〈古代の古代〉のイメージを作り上げると言いながら、その一方で〈古代の古代〉を実体視しているようにも思われるのである。例えば、雲南を調査の対象として選んだ理由として挙げられる言葉が私には気になってしかたがない。というのも、工藤は、「〈古代の古代〉の日本列島と密接な交流があった地域で、かつ現に縄文・弥生段階とあまり変わらないような生産力と閉鎖性で生活している」、それが、雲南の少数民族社会だというのだ。
 だが、ここでいう〈古代の古代〉が残存する縄文・弥生段階と変わらない生活とはいったい何を指しているのだろうか。雲南の南部で近年まで盛んだった焼畑による生産活動を指しているのか、それとも北部でもいたるところに見られる棚田のことを指しているのか。焼畑についていえば、雲南では地域や民族によってその方法は多種多様であり、また現代にいたるまでの間に状況に応じて様々に変化してきたことは、雲南大学教授の尹紹亭によって詳細に報告されている(『雲南の焼畑』農林統計協会)。別に民俗学的成果の軽視を非難しているわけではない。私が言いたいのは、雲南の少数民族社会であっても、既に長い歴史のなかで何らかの変容をこうむってきているのであって、何の変化も加えられないピュアな〈古代の古代〉が、現に生きているわけではないのではないか、ということである。
 実際、工藤が「丸ごとの現場資料」を収集する手段として重要視しているビデオ撮影に関して言えば、よそから突然現れた調査者がカメラを向けるということも、そして、更には調査者自身の存在自体も、その現場に少なからぬ影響を及ぼすことになる、という認識は、民俗学や文化人類学ではもはや常識になっている。純粋に〈古代的なるもの〉が、変わらずに少数民族社会だけに継承されているというのは、幻想にすぎない。
 また、そのことは、日本における『古事記』以前の社会についても言えるはずだ。工藤は中国文化を取り入れた律令国家の成立によって〈古代の近代〉がもたらされたとしているが、そのずっと以前の縄文から弥生への生産活動の劇的な変化は、見方によっては、産業革命に匹敵するほどの古代における近代化と言えるだろうし、同じことは、石器時代から縄文時代への変化についてもあてはまる。要するに、速度の違いはあれ、文化は常に変化をし続けているのであり、したがって、どの時点を日本の原点、すなわち〈古代の古代〉とみなすのかは、全く客観的なものではなく、研究者側のものの見方や尺度に全面的に依拠するものなのである。ということは、〈古代の古代〉というのは、実体としてではなく、工藤の掲げる理念型もしくはモデルであるという前提に限定して論じられるべきであろう。
 しかしだからといって、私は、この〈古代の古代〉という問題が意味のないものだと言っているのではない。むしろ、現代という時代を再考察するためにも、また、近代化された己れの身体を相対化するためにも、〈古代の古代〉をイメージすることは不可欠であると考えている。そして、〈古代の古代〉という問題に積極的に立ち入って、しかも生産的な議論を展開するためには、文化人類学的、民俗学的手法によって収集された現場資料を用いて実証的な議論をするのではなく、それらを自由に分解し、組み立てなおし、そこから豊かな〈古代の古代〉のイメージを作りだす想像力と発想力、そして文体が必須となる。そこにこそ、文学研究の力量が発揮されるのではないか、と思うのだ。
 自らも戯曲や小説を手がける文学性豊かな工藤の仕事が実証主義に偏らないことを祈りつつ、そして更なる今後の研究の展開に期待しつつ、私自身も民俗学を専攻とするものとして、雲南の少数民族文化とのかかわりを模索していきたいと思う。(勉誠出版 二八〇〇円)

(『東北学』7号  2002年10月発行)

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