書評  鶴見太郎著『民俗学の熱き日々 柳田国男とその後継者たち中公新書
(2004年2月発行 700円)


周辺の「創造的読者」が継承した柳田国男の思想と仕事


 これほどまでに柳田国男の体内の奥深くに入り込んだ柳田論は、かつてあっただろうか。しかも、その手法は、鋭利な刃物で容赦なく柳田の皮や肉を滅多斬りにしながらも、自らはその返り血を浴びることを巧みに避けようとする最近の無責任な柳田批判とは異なる。また、一昔前に盛んに行われた柳田の神格化とももちろん違う。本書は、むしろ、柳田のまわりをめぐる清水が、穏やかにその体を包み込み、内部へと深く浸みていくような、そんな抑制のきいた手法で、柳田国男という人に、そして柳田民俗学に誠実に近づき、その魅力を軽やかに称える爽快で新鮮な柳田論であると言っていい。
 著者である鶴見太郎は、かつて山口昌男が柳田民俗学に孕まれる問題を言い当てた「柳田に弟子なし」という言葉を受けとめたうえで、むしろそれこそが柳田民俗学が今日まで日本の学問・思想界に大きな影響力をもちつづけている理由ではないか、と問いかける。すなわち、個性の強い「弟子」がいなかったからこそ、柳田の方法や仕事は、特定の集団によって独占されることなく、その著作を通して多くの人間に平等に開かれてきたのではないか、というのだ。
鶴見は、著作を通して自由に柳田に接し、その思考方法やエッセンスを継承していった人々を「創造的読者」と呼ぶ。そして、むしろ民俗学とは異分野で活躍する彼らの仕事を丹念に追うことで、柳田が打ち立てた民俗学とはいったい何だったのかを、その周辺から照らし出そうと試みているのである。
 たとえば、柳田の感性豊かな青年期を支えた詩人としての直観や詩的叙述。柳田は、「木曜会」等で直接に民俗学の指導を行うようになってから、それらが民俗採集や事例報告のなかに入り込むのを弟子たちに強く戒めた。それが、「柳田に弟子なし」という状況を生みだす大きな要因になったとされている。しかし、柳田のもっていた詩人としての直観や文学的叙述は、むしろその著作を通して、たとえば、女流詩人・永瀬清子の詩人としての生き方に大きな転機をもたらしたことを、鶴見は発見する。そして、そのことは逆に言えば、柳田自身が、民俗学に身を転じてからも、詩人としての直観や叙述を自分の学問の隠された支柱として持ち続けたことを意味するのであり、同じ詩人である永瀬だからこそその埋もれた直観を柳田の著書に読み取ることができたのだと指摘するのである。
 他にも、フランス文学者の桑原武夫、プロレタリア作家の中野重治、文化人類学者の梅棹忠夫など、鶴見は、柳田の周縁にいた「創造的読者」をめぐり、そのそれぞれの姿のなかに柳田の血や肉の結実を発見していくのである。
本書によって改めてあらわになるのは、柳田と共鳴するような感性や創造力をもった読者が、そして、鶴見のような柳田の体の深くまで浸みる柳田論を展開する学者が、日本民俗学内部にはいない、というこの紛れもない事実である。私を含め、民俗学を専門とする者が柳田を本当に「超える」ために今問われているのは、それぞれがいかに柳田の「創造的読者」になりうるか、ということなのではないだろうか。

(『中央公論』2004年6月号  2004年6月1日発行)

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