書評  前田速夫著『異界歴程』晶文社
(2003年4月5日発行 2800円)


流浪の民を生きる


 私は、「異界」という言葉の冠された書物が苦手だ。苦手というより、嫌いだと言った方が正確なのかもしれない。何度も飽きずに繰り返される軽佻浮薄な「異界」ブームに辟易しているということもある。また、単なるブームということばかりでなく、私の印象では、それらの書物の多くは、魑魅魍魎のうごめく混沌としたこの世ならぬ世界を覗き見することで自慰的快感を得ようとする陰気なものか、もしくは、そうした混沌とした世界をアカデミズムの論理によって理路整然と分断し、暴力的に解釈してしまうもののどちらかに属するように思われるからだ。私には、そのどちらにも、結局は「異界」をいつまでも自分とは異なる世界としてしか見られない無責任さとある種の不健全さが感じられてどうにも好きになれない。
 もちろん、私の好き嫌いなどはどうでもよいことなのだが、書評を依頼されたときの心配を見事に裏切って、「異界歴程」というタイトルのついた本書がそのどちらからも一線を画するものであったことをまずは強調しておきたいのである。
 巻末に付された「対談 ふたたび、独学のすすめ」で谷川健一氏が述べているように、本書は、白太夫や遊部やゴンボ種といった、人々から賎視され、追放されて居場所をなくした流浪の者たちの生きる闇部へと触れているにもかかわらず、その叙述には不思議なことにまったくじめじめとした暗さがない。また、覗き見主義的な陰湿さも微塵も感じられない。むしろ、極めて明るく、健全な印象を私は覚えたのであった。そのように感じられるのは、そうした差別された流浪の民に対する著者のまなざしが、その不幸な境遇に同情するものでも、また、ロマンティックに称揚するものでもないからではないだろうか。
 例えば、第六話「魔法の谷」では、奥飛騨の高原(たから)川流域に密集する白山信仰の謎が、地元に伝わる怪異伝説や円空仏を手がかりに大胆に解かれていくのであるが、そこで著者によってあらわにされる白山信仰を受容する、差別され、排除された人々の姿は、したたかで、しかも差別を笑い飛ばすユーモアがあり、生命力に満ち溢れているのだ。また、第八話「マラーノ来日」では、十五世紀末にスペインで迫害され、やむなく表面上カトリックに改宗した、「マラーノ」=豚野郎と揶揄される隠れユダヤ教徒で、十六世紀に来日したポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダの人生に言及している。そこで、著者は、アルメイダが来日後、癩者の救済に尋常ならぬほど献身的であったことの背景に、宗教上の慈悲とは別に、マラーノとしてたどりついた彼の絶対の境地を読みとり、こう述べているのだ。「被差別者である自分が、自己の技倆のみで対等に立ち向かえる場、それが同じ被差別者である非人としての癩者を治療することにほかならなかったのではないか。」
 差別される者の現実。著者は、それを声高に抗議するわけでも、また過剰に同情するのでもなく、彼らのなかで連綿と語り伝えられてきた恐ろしくもあり、またおかしくもある伝承を自らも共有しながら、ただ静かに彼らへと寄り添い、その息づかいを感じとろうとしているように思える。それは、著者自身が本書で論じている、ラフカディオ・ハーンや菅江真澄や近藤富蔵、泉鏡花が、貧民や乞食、職人、被差別者、漂泊する芸能民など、疎外された者たちへとむけるまなざしと明らかに重なっていると言えるのではないか。
 また、本書が他の「異界もの」と決定的に異なっていると思われるのは、その論述の方法の特性にもある。それは、およそ民俗学や歴史学の正統的な方法からは逸脱していると言っていい。著者は、「はじめに」で、本書の性格についてこう述べている。「本書は題名が示しているように、異俗の痕跡を求めて、列島のあちこちのこの世ならぬ伝承や風土を、気ままに余多歩いた記録である。足を向けた先は、実際の土地や人間に限らない。さまざまな書物や資料を渉猟することもまた、欠かせぬトレッキングの楽しみだった。」
 この言葉通り、昔話や伝説にのめり込んでいると思ったら、極めてマイナーな地元でしか知られていないような歴史資料を膨大に探し出してきて、それを徹底的に読み込んだり、それから、唐突に多様なジャンルの現代小説の一節を引き合いに出したかと思えば、今度は自らのフィールドワークで得られた感覚が回想とともに呼び起こされる。「余多歩き」はヨタヨタ歩きでもあると著者は言うが、山野河海を、古今東西を、そして学問と文学の狭間を縦横無尽に駆けめぐる彼の足取りはとても軽やかである。
まさに「異界」そのものと言っていいほど混沌としたこの独特の論述が、空中分解することもなく、読者にここちよい刺激を与えるものとなっているのは、著者のすぐれた直感とともに、滑らかな文体と綿密で周到な文章構成によって、さまざまな材料がまるで推理小説のページをめくるかのように、細い線で緩やかに、しかし確実に結びつけられているからに違いない。
 私は、やはり正統ではないが、民俗学を専門とし、人身御供だの生贄だのといった社会の闇の部分へと触れる問題をテーマにしてきた(参考として、拙著『神、人を喰う』)。しかし、率直に言えば、その問題の本質まで届く方法も文体も、これまでの民俗学や文化人類学の研究のなかでは見つけ出すことはできないでいるし、かといって自分自身でもそれをいまだ獲得できずにいる。その意味でも、本書は極めて貴重な試みの書であるとともに、アカデミズムに対する挑発の書でもあるように思われるのだ。
 著者の前田速夫は、文芸雑誌『新潮』の編集長を長い間務めた。本書がもっていてアカデミズムにはない魅力のもうひとつは、編集者として常に第一線の作家と作品に接してきた彼の研ぎ澄まされた感性とそして広範囲に広がる知的ネットワークによるものであるだろう。著者は、名高い作家の現地取材にことごとく同行して、そこで貪欲にあらゆるものを吸収し、そして新たなネットワークを作りだしていく。その動きはとどまることを知らないかのように活動的だ。
 白太夫の子孫である菅江真澄や木地師でもある円空の広範な行動力を支えたのは、全国に張り巡らされたマイノリティによる緻密なネットワークなのではないかと、本書では指摘されている。著者の差別される者へのまなざしといい、そして、それを支える論述方法といい、少なくとも本書のなかでは、まさに著者自身が、限りなく広がるネットワークを頼りにさまざまな領域の境界線上をさすらう流浪の民を生きている、そんな印象をもった。

(『文学界』2003年7月号  2003年7月1日発行)

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