山形新聞 日曜随想9    2003年10月26日(日)掲載分

焼畑の旅


 今月の一五日から二〇日にかけて、ラオスに出かけた。私が勤務している東北文化研究センターで今年から始まった焼畑プロジェクトの共同調査のために、ビエンチャンとルアンパバンを訪れていたのである。初めて目にする熱帯の焼畑は、私の想像をはるかに越えてとても豊かで、感動的だった。竹の生い茂る山の斜面を焼いた畑には、陸稲だけでも一〇種類近くの稲が育てられ、その隙間には、ハトムギ、バナナ、ウリ、キャッサバ、トウモロコシ、ゴマ、オクラ、サトイモなどさまざまな植物が混植されている。また、焼畑のすぐ側に設けられた出作り小屋の周囲には、手の届くところまでレモングラスやマメなどが栽培されている。そして、そうしたさまざまな稔りにひきつけられてやってきた動物や小鳥たちも、また人々の食糧になるのだ。一見すると雑草だらけで粗放な畑に見えるが、実はここは、どれもこれもおよそ無駄というものはひとつもない、宝の山のような豊かな稔りの広がりであった。
 焼畑研究のオーソリティである文化人類学者の佐々木高明さんは、かつて、東アジアの焼畑の特徴のひとつを、こう指摘した。東アジアの焼畑においては、陸稲が他の作物を圧倒して優先化する陸稲化現象が進行し、全体としては雑穀類や根栽作物を主作物とする焼畑から水田稲作へと、土地利用の形態が収斂していったということができる、と。つまり、焼畑は「稲作以前」の農耕であって、水田のもつ耕地としてのすぐれた性格と稲のもつ作物としてのすぐれた特性によって必然的に水田へと移行していったというのである。
 しかし、ラオスの焼畑を見渡すかぎり、この焼畑の水田化への傾向はほとんど当てはまらないように思う。ラオスでは、平地には雄大な水田が広がっているが、そのすぐ先にある山では焼畑が拓かれ、陸稲のほか、はじめに挙げたようなさまざまな植物が栽培されている。しかも、面白いことに、ラオスの人たちは、水田で作った米よりも、焼畑で作った米の方がうまいと言う。すなわち、どちらか一方がもう一方を淘汰するのではなく、むしろ水田と焼畑がそのそれぞれの存在価値を認められたうえで並存しているのが、ラオスで見かけるごく一般的な農村風景なのだ。
 水田や焼畑ばかりではない。たとえば、ラオスでは、乾期に入ると、人々はいっせいに河岸を耕し始める。茶褐色に濁る河のゆったりとした流れによって養分の堆積した肥沃な土地を利用して、できるだけたくさんの作物を作ろうというのである。私の訪れたこの時期はちょうど畑作りのはじまった頃であり、たくさんの人々がメコン河の両岸に出てマメやウリを植えるための畑を耕していた。
 つまり、水田か焼畑か、あるいは河岸に一時だけ作る畑か、その農耕の方法はいろいろであるが、人々は土地の特性を経験的に十分理解したうえで、その土地にあった作物を、もっとも適した方法で作っている、それが実際のところなのである。しかも、ひとつの土地で作る作物は決して単一ではない。焼畑はもとより、水田でさえも、何種類かの稲を混ぜ合わせて作っている。そうした姿は、成熟していない、未発達の農耕というよりも、むしろ、私には、作物が単一化することに積極的に抗っているようにも見えた。自然に左右されやすい農耕は、たとえひとつの作物が凶作であっても、他の作物でそれが補えるように、いわばいくつもの保険をかけた形の多様な作物の栽培が鉄則である、ということを私たちに教えるかのように。
 ラオスでの焼畑の旅によって見えてきたものは、これから私たちが、東北で焼畑や農耕の問題を考える際に、さまざまな繋がりと広がりを見せていくに違いない。今、焼畑が面白い。




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