山形新聞 日曜随想10 2003年11月30日(日)掲載分
“生きる”教育とは何か
現在、東北芸術工科大学で開催している関野吉晴写真展「南と北の狩人たち―熱帯雨林と極北から―」を、もうご覧になっただろうか。獲物を殺し、解体する血なまぐさい写真の数々に、絶句した読者も少なくないかもしれない。
人類が拡散した五万キロの道を逆ルートでたどるグレート・ジャーニーの旅を成功させた探検家・医師である関野吉晴氏が旅の行程で撮りためた写真のうち、私たちは、今回、狩猟に関する写真を選びこの写真展を企画した。狩猟をテーマに据えたのは、血抜きした肉の塊を頬張りながら、その犠牲となった動物の姿を思い浮かべることすらできない、いわば、動物の死の現場から遠く隔たった近代的な私たちの暮らしのなかで、生き物を殺して食べるということの意味をもう一度考えてみたかったからである。
展示されている写真のなかで、とりわけ気になっているものがいくつかある。それは、子どもたちの写真だ。たとえば、大人たちが解体した白熊の頭部をおもちゃにして遊んでいるセントローレンス島の子どもの写真に目をひかれる。恨めしそうに目を半開きにして、ベットリと血糊のついた白熊の大きな頭を、三歳くらいの男の子が小さな手で撫でまわしている。興味津々といったその表情は、熊の体をじっくりと観察しているようでもあり、狩人の鋭いまなざしを彷彿させる。それから、大人の狩人が射止めたクモザルを運ぶマチゲンガの少年の写真。まるで自分が獲ったかのようにその顔は誇らしげだ。ほかにも、母親の傍らで猿の皮むきを手伝っている女の子や、自分たちが仕掛けた罠にかかったウサギを手に、意気揚々と家に帰る子どもたちなど、関野氏は、狩猟の場面に立ち会う子どもたちの生き生きとした表情を実によくとらえている。
これらの写真に対して、「なんて残酷な子どもたちなんだ。親たちはどんな教育をしているんだ。」と思われる方もなかにはいるかもしれない。私はそんな批判を聞くと、数年前の新聞記事を思い出す。秋田の小学校で、教師が「いのちの授業」として、子どもたちと一緒に鶏を殺して解体することを計画した。ところが、その授業の前日になって何人かの保護者から反対する意見が寄せられ、結局その授業は中止になったという記事だ。その後の情報が乏しいので、詳しい状況はよくわからないが、私の頭に鮮明に残っているのは、その事件のコメントとして載せられたある教育評論家の言葉である。それは、そんな残酷なことをしたら、子どもに癒しがたい心の傷を負わせることになる、というものだった。自分たちが食べるものを、自分の手で殺すという行為が、そんなに残酷なことなのだろうか。
関野氏がこの写真展にあたって寄せてくれた文章に、こんな言葉がある。「狩猟民は殺生、解体、料理をすべて自分たちで行います。子どもたちはそれを観察し、手伝います。自分たちが他の生命を食べて生きていることを実感して育ちます。そのため動物に感謝して食べ、殺した動物のあらゆる部分を食べ尽くします。」すなわち、狩猟民にとっては、子どもを狩猟や解体に立ち会わせることこそが教育なのであり、それは、技術の習得ばかりではなく、自然とのつきあい方やいのちの大切さを、理屈でなく、実感として体のなかに沁み込ませる、とても重要な“生きる”ための教育の現場なのである。
その証拠に、展示されている写真のなかには、野生の猿に口伝えで餌を与え、ペットのようにとてもかわいがっている子どもの写真もある。彼らは、村のなかに迷い込んだ野生動物は決して食べない。死ぬまで、あるいは、自然に戻っていくまで、餌を与えてかわいがるのだ。子どもたちは、生き物に対する愛情や、自然とのつきあい方のルールを、狩猟を通して確実に身につけているのである。自然とのつきあい方や生きていることの実感を見失いつつある現在、私たちが彼らの“生きる”教育に学ぶべきものは大きい。
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