河北新報・微風旋風3 2003年9月2日掲載分

沢内村を訪ねて


 八月の最終週になって漸くまとまった時間がとれたので、私は、かねてから一度行ってみたいと思っていた岩手県の沢内村へと出かけることにした。
 沢内村には、『沢内年代記』という、延宝元年から大正六年にいたる二四四年間、村人によって書き継がれてきた村の生活史が残されている。なかでも、度重なる冷害や洪水による凶作や飢饉についての生々しい記録には、目を見張るものがある。このようにひとつの村の歴史が、都会から訪れた知識人による紀行文としてではなく、また、役人の記録としてでもなく、まさに村人による村人ための記録として今日に伝えられるというのは、おそらく全国でも稀有なことに違いない。いったいそんな記録を残した沢内村とはどのようなところなのか、まずはそれを肌で確かめてみたい、そんな思いであまり下準備もしないまま山形を出発したのであった。
 湯田インターチェンジで秋田自動車道を降りて県道を二〇分ほど北上した、和賀川沿いの谷筋に沢内村はあった。奥まった山村を想像していた私には、予想外に田んぼが広がり、県道沿いに家が立ち並ぶその開けた光景がとても印象的だった。だがそれは、村人の努力によって作られてきた景観であった。そのことを、私は、長年村役場に勤め、『沢内村史』の編纂委員でもあった高橋定雄さんのお話から知ったのである。
 今から三五年前ころに行われた集落移転のことについて、高橋さんは目を輝かせながら話をしてくれた。山奥の沢筋に点在していた家々を道路や施設の整った村の中心部に集める。その後全国で活発になる集落再編成の活動の先駆けだったという。長年暮らした場所から家を移す、ということには、賛否両論あるだろう。だが、豪雪地での暮らしにとって、それは切実な問題だったに違いない。そして、それが行政主導ではなく、村の若者を中心に行われたということにも大きな意味がある。二〇〇年以上も村の歴史を記録し続けた沢内村の人々のエネルギーが、少なくとも三〇年前までは受け継がれていたということに、私は少なからぬ感動を覚えるのであった。(東北芸工大東北文化研究センター研究員。山形市)


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